夫婦ごっこ 英→←日 1960年代頃 続きます。英日はハッピーエンドでないと。

Side:JPN

 

「そういえば今日は、お前と同盟を組んだ日だったな」

 130日朝。

 ロンドンで開催された世界会議のコーヒーブレイクの最中イギリスさんが話しかけてきました。

「ああ、そうでしたっけ?」

 私は紙コップに注いだコーヒーから目線をそらさすに返事をしました。

 私にとっては現在でも大切な日ですが、彼にとっては通りすがりに話を切り出せる程度の記憶でしかないのでしょう。力もなく、アメリカさんのような陽気さもフランスさんのようなユーモアもない老体など、世界を牽引する存在にとっては路傍の石程度の意味しかないのです。

 軽い落胆とともに飲み込んだコーヒーは香りが飛んで美味しいとはいえませんでした。

「確か、早とちりの部下が俺に言ったんだ。

『綺麗な花嫁さんで良かったですね』ってさ。

あいつら、最後までお前を女だって信じてたな」

「そうですか」

 欧米の基準からすれば私の背は低い。彼らに言わせれば、彫りの浅い童顔は女性のように見えるのだそうです。この種の揶揄には慣れているのでさっさとかわしますが、正直言えば少し不愉快ではありました。

 なんだか情けないではないか、日本男児。

「先ほどの議題ですが・・・」

「今でも、俺たちが夫婦のふりをしたら、その辺のやつら騙せるかな?」

「さぁ、どうでしょうね。あ、失礼」

 私はタイミングよく休憩室に入ってきたイタリア君に手を振りました。挨拶にいくと見せかけてその場を離れようとしたところで、腕に強い力を感じました。イギリスさんに腕をつかまれたのです。腕をたどって見上げた先には愉快そうに唇を吊り上げた男の顔がありました。

「決めた。夕食は『カークランド夫妻』で予約を取っておく。夜7時にお前のホテルのロビーで待ち合わせだ。来いよ」

「はぁ?私は約束が」

「あ、キャンセルしろよ。こっちのほうが面白いぞ」

 獲物を追い詰める猫のように若竹色の瞳をきらめかせ、元海賊の紳士は空になった紙コップをゴミ箱へ投げ入れました。ストライク。そしてそのまま、彼は私の返事も聞かずにさっさとアメリカさんに絡みに行きました。

「なんなのでしょうか」

 男二人で夫婦なんて、いい物笑いの種じゃないですか。

 本当の性別がばれたときに恥をかくのは私です

 もしかしたら、公衆の面前で恥をかかせることが目的なのでしょうか。うまいこと私だけが嘲笑されるように仕向けるかもしれません。

 こんな馬鹿げた嫌がらせ、普通のひとはやらないでしょう。でも、執念深いイギリスさんならばやりかねません。私には彼に嫌悪される理由はいくらでもありますし。

 実際に国際社会に復帰した最初の世界会議で彼は衆人の前で私を嘲ったのです。

 

『お前みたいな惨めな負け犬は戻ってこないほうがせいせいするけどな、復帰した以上は仕方ないから面倒みてやるよ』

 

 彼の露骨な嫌悪は私の心を引き裂きました。その場では公の場である手前、私は平静を装いましたが、その晩ホテルに戻るとすぐ、私の目からは勝手に涙が溢れてきました。その涙に私は誓ったのです。

 星空の下を駆けた夜から抱いていた想いを永久に封印することを。

 それからは彼とは殆ど接触をしないように過ごしてきました。両国民の間で経済や政治的な交流が再開し活発化していくのを横目で見ながら、会議で顔を合わせてもイギリスさんとは挨拶と当たり障りのない世間話を交わす程度の付き合いにとどめていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロビーに飾られた大きな柱時計が7回目の鐘を鳴らすと同時に、回転ドアからイギリスさんが大きな紙袋を手に姿を現しました。

 一度自宅へ戻って着替えたのか、黒いテーラードカラーのコートの下に細身のダークグレーのスーツと黒のシャツ、瞳と同じ色のタイという装いはいつもの紳士的な風情に、ひとしずくほど艶っぽさを加えていました。

 確かに、美しい人です。

 対する私は会議場で着ていたワイシャツにスラックスのままのやぼったい格好のままでした。

「三ツ星レストランに行くにしては、ずいぶんシックな服だな」

 開口一番、皮肉を口にする英国紳士に私は頭を下げました。

「すみません、今回は会議だけだと思っていたのでちゃんとした服を持ってきていないのです。ジャケットもコーヒーをこぼしてクリーニングに出していますし、申し訳ございませんがまたの機会に」

「だったら、これやるよ」

 私の遠まわしの拒絶はあっけなく無視されました。突き出された紙袋にはイギリスの有名ブランドのロゴが印刷されています。

「結婚記念日に夫が妻に服をプレゼントしてもおかしくないだろ」

「ですが、あの」

40秒でしたくしてこい」

 イギリスさんの表情はあくまで平静です。このゲームに尻ごむ自分の方が意識過剰ではないかと思ってしまうほどです。彼は私の隣に腰をかけ、ローテーブルに置かれていた新聞を手に取りました。

「あのですね、男同士で夫婦なんて、周りから見たら滑稽ですよ」

「周りが気がつけばの話だろ」

 金髪の青年は面倒くさそうに鼻を鳴らして記事を読み続けましたから。

「私は気が進まないのですが」

「ほんの遊びだろ」

 イギリスさんは私の困惑と拒絶をあっさりと切り捨てました。彼にとって私は配慮をするべき友人ではなく使い捨ての玩具の様なものかもしれません。

 ですが、私にとっては違います。これ以上彼の私への嫌悪を見せ付けられたくないのです。

「さっさといけよ」

「はぁ」

 結局、私はいつもの通り強い態度に出ることもできず、部屋に戻って紙袋を開けました。

 

 

 数分後、私は明るいブラウンのスーツと艶のあるスタンドカラーのシャツ、それに黒いベルベッドのスカーフを首に巻いてロビーへと降りました。スーツもシャツもタグには女性用とは示されていませんでしたが、柔らかな色合いや素材は女性用といっても通じそうです。ロンドンの金融街でこのスーツをまとっている女性の姿が思い浮かびました。アクセサリーやスカーフを加えればちょっとした外出、たとえば夫との金曜夜の外食にも使用できるでしょう。

 エレベーターの中の鏡に映った私は、少し窮屈そうでした。わずかに眉間に皺のよっている仏頂面は晴れやかなイギリスさんの美貌とは雲泥の差です。窮屈さは淡い桜色のローファーに履き替えたせいもあるかもしれません。こんな色の靴は今までためし履きすらしたことがありませんでした。

「よく似合ってるな」

 エレベーターを降りる年寄りにイギリスさんが不躾な視線を送ってきました。頭の先からつま先まで、全部自分がコーディネートした姿を実に嬉しそうに眺めています。

 女装すれすれの姿が面白いのでしょうか。

 私の顔が自然に強張りました。

「これじゃ、誰が見たってごく普通の若奥様だ」

「・・・服は男女兼用でも差し支えなさそうですが、私は男ですよ」

「こんな華奢な男、この国にはいねぇよ、奥さん」

「私の国にはこんな男、腐るほどいますよ」

「だが、ここは俺の国だ」

 愉快そうに喉を鳴らす声が私の劣等感を刺激します。この方の目的はそれなのでしょうか?

 衆人に私を女性扱いさせ私のプライドを破壊すること、体格の良い自分の優越を悟らせることなのでしょうか。

 逃げたい。

 夕食などいらないから、安全な自室へ戻って、こんな女みたいな服もスカーフも靴も脱ぎ捨てたい。でもそうすれば、目の前の悪魔はきっと根性なしと私をあざ笑うのでしょう。

「さぁ奥様、お手をどうぞ」

 差し出された手を私は弱い心を堪えてとりました。こんな嫌がらせに負けるわけにはいきません。戦破れ落ちぶれたとしても、誇りだけは失うわけにはいかないのです。

 

 

 タクシーで連れていかれた先は意外にも日本料理の店でした。

 店の二階にある個室の座敷は落ち着いていて、まるで本国にいるかのようでした。聞けば、親日家のイギリス人オーナーの招いた板前の腕が評判になり、いまやロンドンではちょっとした人気の店なのだそうです。

「日本食はお前のフィールドだからな、すきなものを頼めよ」

 手書きのメニューを私に開いてみせ、イギリスさんはさっさとビールを注文しました。

「そうですね・・・」

 メニューには季節の魚の刺身や煮物、茶碗蒸しに金平と馴染みの品物が揃っています。ここ数日の欧州生活でいささかバターや肉に食傷気味だった胃が敏感に反応しています。

「おでんはいかがですか?魚のスープで野菜や魚の練り物を煮込んだものです。ああ、肉じゃがも頼みましょうか」

「お前に任せた」

 グラスを空けるイギリスさんの目が細められていました。優しいこの表情を私は知っています。同盟期にしばしば見せてくれたこの表情を、私は好ましく思っていました。同盟期も、それ以降も知らせるつもりはありませんでしたが。

 運ばれてきた料理の感想を言い、材料や料理法を質問するイギリスさんとは甘い空気は流れませんでした。個室のなかでのやりとりはどうみても日本人が接待相手に自国の食文化を進めるものでしかありませんでした。夫婦を演じて他人を騙すというゲームの趣旨にはそぐわないことです。単なる勝者の気まぐれでゲームを開始し、飽きて忘れてしまったのでしょうか。そうであってほしい、と丁寧に出汁の取り方を説明しながら私は願いました。

 しかし、どうやら私は彼をみくびっていたようです。

 デザートを待っていると、不意に閉めた襖の向こうから声がかけられました。

「カークランド様、お預かり物があります」

 襖をあけた店員の手には大きな赤薔薇の花束。

 イギリスさんは丁寧に薔薇を受け取り、店員に心づけを渡しました。

「ありがとう。今日は一回目の結婚記念日なんだ」

 晴れやかな笑顔を浮べたイギリスさんは、花束をゆっくりと私に差し出しました。かすかな芳香があたりに漂いました。

「菊、俺と結婚してくれてありがとう。

それから、これ」

 薔薇に添えられた箱から取り出したのは金の指輪。イギリスさんは長い指で指輪をとり、私の薬指に嵌めました。少し桃色がかったシンプルな指輪は、私のひょろ長い指にしっくり嵌りました。

「今まで買ってやれなくてごめんな。これからうんと楽させてやるからな」

「・・・・・・」

 なんですかこれ。

 たかがゲームにしては手がこみすぎていませんか。

 指輪が私の指にぴったりですが、いつ私の指輪のサイズを知ったのですか。そもそも私自身もそんなもの知らないのに。

 何なのでしょう。

 混乱におぼれる私を更に店員の一言が打ちのめしました。

「奥様、指輪とてもお似合いですよ」

 興奮した店員の歓声につられて集まった店の女将や従業員、果ては別室の客たちからの祝いの言葉と拍手が私達に降り注ぎました。

 何も知らない彼らからしたら、私達は結婚記念日を妻の母国の料理で祝う、ようやく生活にゆとりが出てきた夫婦なのでしょう。今更もう否定もできません。

 顔を赤らめるしかない私とは対照的にイギリスさんは愛想よい笑顔で彼らに挨拶します。こんな風に私には笑ってくれたことなど同盟破棄後にはあったでしょうか。

「菊、恥ずかしがらないで皆さんにお礼を言えよ」

「・・・・・・ありがとうございます」

 振り絞った声は上ずっていて、あっという間に拍手にかき消されました。

 

 

 夕食のあとはテムズ川沿いのバーへと案内されま した。

 窓側の予約席からはタワーブリッジやロンドン塔が見渡せます。今日の同行者と一緒でなければ、私はすばらしい景観をさぞ堪能したことでしょう。

 街の灯がきらきらと遠く近く揺らめいていて、私には与えてもらえないはにかんだ笑みを、若葉の緑をした瞳を思わせてくれる。テーブルにおいた薔薇の香りも実に上品です。

 「ええと、俺はマティーニ、妻にはスクリュードライバー」

 でも、私の薬指をさすりながらいけしゃあしゃあと注文するイギリスさんと一緒では、いつ本当の性別が暴露されるのか不安で景観も楽しむことができませんでした。

「綺麗だな」

 控えめな真珠色の照明のしたでイギリスさんが夜景と私を交互に見つめてきます。遊び慣れている態度は悔しいけれど素敵です。ほら、カウンターのアベックの女性がちらちらと視線を送ってくる。

「ええ、美しい夜景ですね」

 じっと翡翠の瞳で見つめられてはたまりません。この方は自分の魅力を理解しているようで全く分かっていない。嫌われていることを承知していても、なお私は彼に惹かれてしまう。

 彼の視線から顔をそらす私の耳に、低い忍び笑いが届きました。

「本当に綺麗だ、おまえが」

「・・・・・・あの、からかうのもいい加減にしてください」

「愛してる」

「・・・・・・」

 本当の関係や性別をごまかすために、私は大人しくする必要がありました。あと数時間で1月30日は終わる。それだけが私の希望でした。

 ウェイターが二杯目のマティーニを運んだタイミングを狙って、目の前の『夫』は私の手をとり、追い討ちをかけてきました。

「せっかくの結婚記念日なのだから、たまにはベッド以外でも愛しているっていってくれ」

 体中の血液が顔に集まるのが、自分でもわかりました。心臓がこれ以上ないほどに警鐘を鳴らしています。息が苦しい。

「な、な、な、な」

「なぁ、頼むよ。菊」

 ウェイターはぐずぐずと紙ナプキンを直したり、テーブルを拭いたり、なかなか立ち去りません。おそらくは私の答えを聞くまでは動かないでしょう。

「あ、あ、あいしています」

 蚊の鳴くような小さな声はイギリスさんの耳に届いたのかは疑問でしたが、彼はこれ以上ないほどの満面の笑みを浮べました。フワフワした髪は今宵の月と同じ色をしていることに、ふと私は気がつきました。

 

 

 とくん。

 心臓の鼓動がゆっくりと大きくなっていくのを、私は止めることができませんでした。

 まだ、私は彼を愛しているのです。

 こんなにも蔑まれているのに。

 

 

 

 深夜0時を回る直前に店を出た私達は、テムズ川に沿った遊歩道をホテルへと向かいました。深夜にも関わらず、遊歩道にはところどころに人影がありました。カメラを手にした観光客やしたたかに寄った学生グループ、ささやきを交わす恋人たちとすれ違います。私達は彼らからはどのように思われているのでしょうか。

 夜風に当たっても、胸の昂ぶりを押さえることはできませんでした。

 握られた左手が熱い。

 石も嵌められていないのに指輪が重い。

「今日は楽しかったな」

「ええそうですね」

 晴れ晴れと上機嫌な声。私はいつもアメリカさんにするように心のこもっていないつぶやきを作りました。本音を言うことは今の私の立場では許されません。緊張のしどおしで、何一つ楽しむことなどできなかった、などと。

 ましてや、今、あなたの温もりが手から腕、肩と伝わり、動悸を悟られないように必死で深呼吸していることなど。

「皆面白いくらい騙されていたな」

「ええそうですね」

 早く帰りたい。もう、服など着替えないでベッドに飛び込みたい。何も考えずに熟睡して飛行機に乗り込んで我が家に帰ってポチ君を抱きしめたい。こんな緊張などもうごめんです。

 私をお嫌いならば、どうか放っておいてください。

 

 ぼぉん。

 

 ウェストミンスターの鐘が鳴りました。

 待ちに待った12時の鐘は130日の終わりを告げるものでした。

「ああ、もう131日ですね」

 イギリスさんの手が離れました。

『夫婦ごっこ』は1月30日だけのゲームです。終了したので当然でしょう。

 一瞬の安堵とそれ以上の寂しさが私を襲いました。

「あの、」

 ふいに肩をぐいと押されました。

 唇に感触。

 柔らかい温度。かすかなベルモットの香り。

 私の肩に食い込む彼の指。

 合わせるだけの接吻は私が身体を突き放すまで続きました。

「何をするんですか!」

 怒声に数メートル先の観光客が振り返りました。

 こんな愚弄は許せない。

 知らないとはいえ、私の大切にしている思慕をからかって、ふみにじって、何が愉快なのでしょう。

「ウェストミンスターは今、故障していて、一分進んでいる。

 夫婦ならキスくらい当たり前だろ」

 街灯の青白い光に照らされたイギリスさんの顔には、何の表情もありませんでした。

 つまらない文書を読み上げるときのような覇気にかけた声。焦点の合わない目。

 どうしてあなたが傷つくのですか?

 真実を告白したい衝動が私を襲いました。

 お慕いしてます、と。

 あなたの憎悪が悲しくて避けていました、と。

 意地悪なゲームでなかったら、私はあなたと過ごすこの夜を、宝物のように思うでしょう、と。

 だから、傷つかないでください。

 でも、こんな告白はおぞましいだけでしょう。

「さっさと帰るぞ、日本。

明日の飛行機、朝早いんだろ」

 臆病な年寄りが口を開く前に、若い戦勝国はさっさと歩き出してしまいました。

 もう苦しくて、この上なく甘いゲームは終わってしまったのです。

 

 また、隣を歩けて幸せでした。

 

 イギリスさんが背を向けているのを良いことに、私は一筋だけ涙を流しました。

Side:UK

 

「そういえば今日は、お前と同盟を組んだ日だったな」

 130日朝。

 ロンドンで開いた世界会議の休憩時間に俺は日本に話しかけた。

「ああ、そうでしたっけ?」

 話しかけられても、日本は顔を上げようともしない。

 そうだろう、もうこいつにとって、俺は何の利用価値もないのだ。

 友人としても面白みのない俺なんかよりも、出がらしのコーヒーの方がまだ喉の渇きを癒すだけましってものだ。

 でも今日は逃がしてはやらない。甘いゲームは今日だけしかできないのだから。

 俺は冷えた空気を無視して絡んだ。

「確か、早とちりの部下が俺に言ったんだ。

『綺麗な花嫁さんで良かったですね』ってさ。

あいつら、最後までお前を女だって信じてたな」

「そうですか」

 冷たい返答。こいつは昔から女扱いされるのを嫌がっていた。でも、別に皆悪意で言ったわけじゃない。確かにプライドを損ねたかもしれないが、彼らはただ優しい美貌を素直に賞賛したかっただけなのだ。

 お前に惚れていたやつもいたのに。俺だって。

「先ほどの議題ですが・・・」

「今でも、俺たちが夫婦のふりをしたら、その辺のやつら騙せるかな?」

「さぁ、どうでしょうね。あ、失礼」

 日本はイタリアへと手を振る。イタリアにだって先に降伏され、裏切られたのに俺に対する態度とはずいぶん違う。心がささくれるまま俺は乱暴に日本の腕を掴んだ。細い腕。俺を見上げる日本の顔には、不安が隠しきれずに細められた目に表れていた。俺は故意に意地の悪い笑顔を作る。

「決めた。夕食は『カークランド夫妻』で予約を取っておく。夜7時にお前のホテルのロビーで待ち合わせだ。来いよ」

「はぁ?私は約束が」

「あ、キャンセルしろよ。こっちのほうが面白いぞ」

 強引な誘いを断られないように、俺は紙コップを捨ててさっさとその場を離れた。上手い具合にクッキーを口いっぱいに頬張ったアメリカに小言を言うふりをして元同盟国を視界の隅で窺う。 

 日本の顔にあるのは、露骨な困惑と怯え。日本が俺を嫌っているのはわかっている。同盟を結んだときも、その間も、破棄したあとも、戦争中も、戦争後も、俺は日本に酷いことを沢山言ってきた。

 世界会議で戦争後に初めて見た日本の姿に、会議場がどよめいた。

 まだ怪我だらけの身体で、アメリカに引きずられるように会議に出席した日本の姿は痛々しかった。  

 会議なんか上司が出れば十分だ。お前は無理をすることない、ちゃんと養生して身体を治せ。

 本当はそう言いたかったのに、アメリカにじゃれ付かれている姿を前にしてこぼれ出た台詞は最悪のものだった。

 

 

『お前みたいな惨めな負け犬は戻ってこないほうがせいせいするけどな、復帰した以上は仕方ないから面倒みてやるよ』

 

 日本はこの暴言に何の反応も返さなかった。その無表情が俺にはショックだった。俺に少しでも好意を持っていれば眉をひそめるくらいはするだろう。でも、あいつは冷静に俺の嘲笑を流した。もう俺なんかどうでもいいのだ。

 あの満天の星の夜から俺の奥底で大切に守ってきた想いは永久に叶わない。

 それからも、あいつと昔みたいに親しく話す機会は殆どなかった。俺がいくら話しかけても、アメリカの横暴からかばっても、日本は簡単に流してどこかへ消えてしまう。もう、手を握ることはおろか、笑いあうこともできない。友達にすらなれない。

 

 

 絶望の果てに俺がたどり着いたのは子供じみたゲームだった。

 彼に優しくしたい。優しくされたい。愛してるといいたい、好きですと言われたい。

 1日だけの嘘でもいいから。

 

 

 回転ドア越しにロビーの椅子に腰をかける黒髪のほっそりした姿が見えた。

 唇を噛む仕草は途方にくれたときのあいつの癖だ。あいつ自身も気がついていないだろうけれど、ずっと見てきた俺は知っている。シャツにグレーのスラックスという手抜きな服装は、体よく俺の誘いを断る布石なのだろう。会議場から家に寄って自分の身なりを整えるついでに、日本の分の着替えを持ってくるという選択は正しかった。

 ゲームにはまず、プレーヤーを盤の前にひっぱりださないといけない。

「三ツ星レストランに行くにしては、ずいぶんシックな服だな」

 かまをかければ、案の定小さな声で遠まわしな拒絶が返って来る。

「すみません、今回は会議だけだと思っていたのでちゃんとした服を持ってきていないのです。ジャケットもコーヒーをこぼしてクリーニングに出していますし、申し訳ございませんがまたの機会に」

「だったら、これやるよ」

 そんな言い訳には騙されない。俺は紙袋を強引に渡した。ここでも拒否すれば実力でこいつの部屋になだれ込んで着替えさせるだけだ。

「結婚記念日に夫が妻に服をプレゼントしてもおかしくないだろ」

「ですが、あの」

40秒でしたくしてこい」

 日本の流されやすさに付け込んで俺は命令した。眉間に寄せた皺が深くなるのを見ないために新聞を広げる。数秒ののち、抑えられた低音がかすかに語気を強め傍若無人な約束相手を非難してきた。

「あのですね、男同士で夫婦なんて、周りから見たら滑稽ですよ」

「周りが気がつけばの話だろ」

 みっともないなんて百も承知だ、逃がしてやるか。俺は内心の緊張をおさえ不機嫌な声を作った。

「私は気が進まないのですが」

「ほんの遊びだろ」

 日本がごねる本当の理由はわかっている。夫婦のふりが恥ずかしいことじゃなくて、単に俺と時間を過ごしたくないのだ。

 でも、俺は違う。こんな茶番を演じても、一日だけでも日本の一番近くにいたいんだ。

「さっさといけよ」

「はぁ」

 部屋に戻る小さな背中を見送りながら、俺はとりあえず彼と食事ができることを神に感謝した。

 

 

 日本に渡した服は俺が愛用しているブランドの新作だ。スーツを新調するときに見つけて、日本に似合うと思って買っておいたのだ。日本は歳を理由に暗い色を好むが、明るい色だって結構似合うと思う。それに、上質のカシミア生地は抱きしめたら折れそうな華奢な身体を包むのにこそふさわしい。靴だって、彼が昔俺の国でオーダーしたときの木型であつらえたものだ。柔らかい皮は歩行時の負担を最小限に抑えてくれるから、まだ病み上がりの日本には必要なものだろう。

 エレベーターから降りた日本の姿は予想以上のものだった。上質のカシミアが日本のしなやかな身体を引き立て、シャツのシルクとベルベッドが艶やかな髪と瞳の漆黒を際立たせている。いつ渡せるかもわからないのに、秘かに買っておいた甲斐があった。

「よく似合ってるな」

 惜しむらくはその顔に、穏やかな笑みが浮かんでいないことだった。

 日本がアメリカ達に向け、かつては俺にも少しだけ見せてくれた笑顔は、スーツの優しい色に合うと思うのに、冷たい仮面が乗っているだけだ。

 湧き上がる嫉妬が俺に意地悪な物言いをさせる。

「これじゃ、誰が見たってごく普通の若奥様だ」

「・・・服は男女兼用でも差し支えなさそうですが、私は男ですよ」

「こんな華奢な男、この国にはいねぇよ、奥さん」

「私の国にはこんな男、腐るほどいますよ」

「だが、ここは俺の国だ」

 控えめな抗議も押さえつけ、俺はわざとらしく喉を鳴らした。

 本当は女に見えるとか小柄だとかは関係なく、お前は純粋に綺麗だと教えてやりたい。でも、疎ましく感じている相手から褒められても単に鬱陶しいだけだろう。

 俺の部屋に日本のために買った服が何着もタグも外されないまま眠っていると知れば、日本は贈ったばかりのスーツもシャツも靴もスカーフも、ゴミ箱に放り込むのは間違いない。

「さぁ奥様、お手をどうぞ」

 すぐに泣きそうになる心を抑えて、俺は手を差し出した。日本に警戒されても、これ以上嫌われても、からかわれていると思われてもかまわない。重ねられた手の柔らかさにはその価値があった。

 

 

 俺が案内したのは日本食レストランだった。

 いつか日本とロンドンを歩けることを祈って、俺はめぼしい日本食レストランを制覇した。なかでも、この店はオーナーこそイギリス人だが店を仕切っている日本人の女性支配人の心遣いや、市場で毎朝仕入れる新鮮な食材を使った料理で食通たちの評判も高く、俺もかなり気に入っていた。

「日本食はお前のフィールドだからな、すきなものを頼めよ」

 メニューを開いてやると、日本ははそそくさと覗き込む。

「そうですね・・・」

 今日の昼食会でも、日本は殆ど食事に口をつけなかった。今回の会議は長かったから、食にこだわりのある日本としてはそろそろ和食が恋しい頃だと考えていたが、やはり正解だったらしい。

「おでんはいかがですか?魚のスープで野菜や魚の練り物を煮込んだものです。ああ、肉じゃがも頼みましょうか」

「お前に任せた」

 日本の低音がはきはきと料理を説明する。昔もよく、和食を作ってはこうやって説明してくれた。食い意地の張った日本はとても可愛い。無邪気で、欲張りで、素直で。

 暫くは運ばれてきた料理について品評したり、日本の説明を聞いたりしていた。食事が進むに連れて上機嫌になっていく日本がたまらなく愛しかった。緊張も徐々にほぐれて、昔みたいに会話を交わし、笑えあえることが嬉しかった。

 友達に戻るのは、実は簡単なことだったんじゃないか。数年間、殆ど挨拶以外は実質的に無視されてきた苦い経験を忘れそうになるくらい、俺は彼との時間を楽しんだ。

 でも、俺はわかっていた。

 これは単に、会食相手に適当に調子を合わせているだけだ。俺は今、日本の利益になるようなことは何も出来ないのだから。

 俺に与えられるのは偽りの微笑みだけだ。

「カークランド様、お預かり物があります」

 ゲームでしか相手にされない哀れな雇い主のために、ハウスキーパーは時間きっかりに花を届けてくれた。

「ありがとう。今日は一回目の結婚記念日なんだ」

 俺は薔薇を日本に捧げた。いつでも日本に贈れるよう、温室で大切に育ててきた薔薇だ。鮮やかな紅薔薇の花言葉を日本も知らないわけはないだろう。

「菊、俺と結婚してくれてありがとう。

それから、これ」

 緊張で手のひらが冷えてきた。何十年も前から、時には上司の目を欺きながら持ち続けた指輪はあの夜の月のようにきらめく。俺の手で、白くて細い指に嵌めてやりたかった、ずっと。

「今まで買ってやれなくてごめんな。これからうんと楽させてやるからな」

「・・・・・・」

 台本どおりの台詞を吐き、『夫婦ごっこ』のふりをする。俺の演技は完璧だ。対する『妻』は大根役者そのもので、機転を利かせて喜びの声をあげたりなどはしない。

 ただじっと、ひたすらに薬指を凝視している。勿論、無表情で。

 長年の望みどおり日本の指に収まった指輪の輝きが俺の胸を締め付けた。

「奥様、指輪とてもお似合いですよ」

 従業員や他の客が俺の気も知らないで盛り上がりはじめた。祝福の嵐。傍から見れば幸福な若夫婦。  

 でも俺は空しかった。

 ゲームでもいいと望んだのは俺だけど、かえって正反対の現実を突きつけられる。

 現実では俺達は友達ですらない。俺が一方的に思っているだけで、向こうは俺に関心すら持っていない。

 指輪なんか、遊びでなければ受け取ってもらえるはずもない。

 そもそも、二人きりで食事なんかありえない。

「菊、恥ずかしがらないで皆さんにお礼を言えよ」

「・・・・・・ありがとうございます」

 俺に触れられたままの日本の手は強張って、ひんやりと冷たかった。

 

 

 食事のあとは、去年建設したばかりのビルに入ったバーに連れて行った。

 予約した席からは近くにはタワーブリッジとロンドン塔、遠くにはシティの夜景が見渡せる。昼ならばセントポールのドームや議事堂も見張らせるこのバーには、何度か一人で来たことがあった。

 日本がほんの少しでもこの夜景を楽しんで、その何万の一でもこの夜景の国である俺を好きになってくれればいい。

「ええと、俺はマティーニ、妻にはスクリュードライバー」

 日本の指はまだ冷たかった。俺の贈った指輪が彼の指を冷やしているのではないかと思うくらい、冷たくて固い。

 俺の気持ちは日本の心を暖めることはできない。

「綺麗だな」

 寂しさをマティーニをあおってごまかす。窓ガラスに反射する俺の表情からは、『結婚記念日の夫』の演技も『ゲームを楽しむ戦勝国』の演技も崩れてはいないのがわかった。

「ええ、美しい夜景ですね」

 目が合ったとたん、日本は視線をそらした。胸がちくりと、やがてずきずきと痛み出す。

 目もあわせたくないのか。

 ならば、嘘のふりをしてお前が一番嫌がる言葉をくれてやろう。

 俺の真実を教えてやる。

「本当に綺麗だ、おまえが」

「・・・・・・あの、からかうのもいい加減にしてください」

「愛してる」

「・・・・・・」

 嘘のふりをした告白は見事に上滑りした。

 日本はかすかに首をかしげただけで、否定の感情も肯定の感情も表さない。

 わかっていたことだ。

 それでも、嘘でも演技でもお愛想でもかまわないから、あの言葉が欲しい。

「せっかくの結婚記念日なのだから、たまにはベッド以外でも愛しているっていってくれ」

 ウェイターが寄って来るのを見計らって俺は意地悪くねだった。かわいそうな日本は顔を真っ赤にして、口をパクパクと開けたり閉じたりを繰り返す。

「な、な、な、な」

「なぁ、頼むよ。菊」

 ウェイターがいるというのに俺は哀れっぽく懇願し、両手で小さな左手を包んだ。まだ冷たい手にまた少し哀しくなる。

「あ、あ、あいしています」

 念願の言葉は、甘く鼓膜を震わせ、身体中に響く。ずっとずっと、聞きたかった音。でも、この台詞は空虚な偽物なのだ。ぎこちない空言の通り過ぎた後は、傷口は更に焼け爛れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 店を出ると、きりきりと澄んだ空に星が見えた。ビルの隙間の四角い、小さな空であっても、星は密やかに輝いている。

 あの夜と同じだ。

 俺は一度つけた手袋を外し、顔を正面に向けている日本の手をとった。

 街灯に照らされた横顔は酒が入ったせいか、桜の花びらみたいに上気している。握りこんだ小さな手も熱かった。

 そして誰もいないのに日本は俺の手を払いのけなかった。

「今日は楽しかったな」

「ええそうですね」

 いつもと同じ平坦なトーンがテムズ川に流れる。苦々しく思っているやつに振り回されて、日本はちっとも楽しくなんかなかっただろう。

 でも俺は楽しかった。

 同盟解消後、こんなに長く、近くで話をすることなど初めてだった。嘘でも愛していると囁いてもらえた。

 この瞬間に死にたいくらい、俺は幸福だ。

「皆面白いくらい騙されていたな」

「ええそうですね」

 リフレインする相槌が冷えた夜気に吸い込まれる。

 ホテルまであと数十ヤード。

 日付が変わるまであとたった数十秒。

 どうかせめて、あと少しだけ、俺と『夫婦』でいてくれ。

 

 ぼぉん。

 

 一分だけ狂ったウェストミンスターの特徴的な音色が響き渡る。

 あと一分で終わってしまう。 

「ああ、もう131日ですね」

 明日からはまた、日本は遠い存在になってしまう。俺以外のす誰かに向けるたおやかな笑顔を、盗み見るだけの毎日に戻ってしまう。

 手を解放してやった瞬間、日本が漏らした安堵のため息が、俺のたがを外した。

「あの、」

 有無を言わさずに唇を奪う。

 ほのかに暖かい、柔らかい唇は今まで触れてきたどの唇よりもはるかに甘くて、想像していたよりもずっと俺の唇に馴染んで、胸が痛い。

 きっとこれが最後のキス。

「何をするんですか!」

 夢の終わりは罵声だった。

 俺を突き放した日本は荒い息を吐きながら俺をにらみつけ、視線の刃が心臓を貫いた。やはり彼は俺を憎んでいるのだ。

「ウェストミンスターは今、故障していて、一分進んでいる。

 夫婦ならキスくらい当たり前だろ」

 温もりの余韻に浸っていた唇が勝手に観光案内をする。

 今の俺の中には絶望しかない。

 イタリアみたいに、アメリカみたいに、ドイツみたいに、フランスみたいに、中国みたいに、俺以外のやつらと同じように、もっともっと日本に優しくしていれば、こんなに疎まれることはなかっただろう。

 他のやつらと同じように、陽だまりの中に迎えてもらえたのだろう。

 でも俺は他の皆と一緒の扱いなんて嫌だ。

 それにもう、遅すぎる。

 今更優しくしたところで気味悪がられるだけだ。

「さっさと帰るぞ、日本。

明日の飛行機、朝早いんだろ」

 俺は一歩前に出て、足を速めた。後ろを歩く元同盟国は何も言わない。

 虚構の楽園は失われてしまった。行き場のない恋情をさまよわせる日々がまた、始まる。

 

 さようなら、俺の『妻』。

 

 日本に気付かれないように、俺はこぼれた涙をぬぐった。

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