薔薇の花咲くこの佳き日


 本田菊は八月が苦手だった。
 強烈な暑さや、どこまでも追ってくる蝉時雨だけではない。八月には良い思い出があまりないのだ。
 そもそも、忘れ去りたい出来事は、たいてい八月に起きている。
 だから、コミケの準備と後始末と称して引きこもるのが、ここ数年の八月の過ごし方だった。

 

 

 「ええ、すみませんね。色々と忙しくて」
 八月初日の会議。
 代理を受け付けない性質のものであった為仕方なく出席はしたものの、会議終了早々に帰宅するつもりだった。
 「菊、今はヴァケーションの季節だよ。
  働きすぎは身体によくないよ」
 「すみませんね。では」
 にこやかに手を振りつつも、足はそそくさと早く動かす。様々な国からの呼びかけを適当にかわし、会議終了五分後にはビルを出た。
 「今から帰ればシティハンターの再放送に間に合いますね」
 大通りの人ごみを大股で縫っていく。夕方のラッシュアワーも、流れさえ掴めば早く歩くのはたやすい。周りのすべてを遮断し、ただ人の流れを見極めるためだけに神経を尖らせる。
 「本田!」
 不意に肩を掴まれた。
 とっさに振り向くと、そこには息を切らした男がいた。
 「おまえ、歩くの早すぎ」
 翠の瞳を歪ませ、膝に手をついて肺を落ち着かせる男。
 一目で高級品と分かる黒のスーツは、走ってきたせいかやや乱れている。
 蜂蜜色の髪も乱れ、太い眉は思い切りしかめられている。
 今月、最も会いたくない人間の一人だ。
 「すみません、急いでいたもので」
 本田は軽く頭を下げ、小さな笑みを作る。用件を聞いて、適当に答えて、さっさと帰ろう。
 五時半からの再放送に執着しているわけではないが、早く切り上げて一人になりたかった。
 「で、ご用件は何ですか?」
 「用件がないとお前と話しちゃいけないのかよ」
 屈んだまま上目遣いに本田を睨む翠瞳には、なぜか苛立ちの色が浮かんでいた。何も心当たりがない本田は、反応に困ってしまった。
 「そんなことはありませんが」
 「まぁいいさ。どうせ俺のことなんかより、アニメの再放送のほうがいいんだろう」
 アーサーの指摘を肯定するわけにもいかず、愛想笑いを続けるほかはなかった。すると、アーサーの眉間に更に深く皺がよった。
 「用件は簡単だ。
  十七日と十八日はあけとけ。うちに来い」
 「えっと、もうその日は別件が入っているのですが」
 ありもしない別件をでっち上げるが、アーサーの次の言葉が本田を制した。
 「俺の誕生日だ。
 何が何でも駆けつけろよ」
 アーサーは本田の華奢な両肩に手を置き、正面から黒瞳を見据えた。苛立ちに満ちた翠瞳に、本田はたじろいだ。
 「お前は俺の、恋人だろ」
  囁きは、甘さとは程遠い凄んだ声だった。

 

 

 本田菊はアーサー・カークランドの誕生日を知らなかった。
 遠い昔、彼と友好関係に入る前に目を通した資料にも記されていなかったし、初めて彼から誕生日プレゼントを貰った時にも尋ねたが、自分でも知らないとの返答しかなかった。
 国がいつ誕生したのかなど、正確にわかることは殆どない。通常は何か歴史的な事件があった日や宗教上の行事にあわせて、人々が決めていることも多い。アーサーの場合は、誰も誕生日を決めなかったというだけのであり、それには相応の事情があった、もしくはなかった、というだけの話だ。
 だから、本田もアーサーと特別な関係になった後であっても、深くは考えなかった。そのぶん、バレンタインデーには休暇をとって恋人を甘やかし、埋め合わせをしているつもりだった。
 「誕生日って、いきなりですね。
 そんな動きがお国であったなんて、知りませんでした」
 しかも、よりによってその日に。
 視線をそらして人ごみへ目を向けると、肩に置かれた手の力が強まった。
 「上司が決めたんじゃない。
 俺が決めたんだ」
 「はぁ。
 あなた、もう誕生日が嬉しいお年じゃないでしょう」
 何でその日に。
 一番知りたいこととは訊けず、本田はどうでもいい茶々を入れてごまかした。
 本田にとっては辛い出来事であっても、彼にとってはそうではなかったのだろうか。

 あの日、本田と訣別した延長に、今の彼の地位がある。恋愛関係にあっても、彼にとっては所詮、自分は踏み台でしかなかった。

 勝者としてたやすく過去を忘れてしまい、偶然にもあの忌むべき日に誕生日を設定したのだろうか。

 それとも、何か、深い意味があるのだろうか。
 「俺だって誕生日やりたいんだよ」
 アーサーの口調がいくぶん早まる。苛立ちが怒りに変化しつつある証拠だ。本田はわけもわからずうなずき、訪問を承諾するほかはなかった。

 

 

 八月十七日のロンドンは珍しく晴れていた。
 彼の好きな映画のDVDと大きなケーキボックスを抱え、本田はカークランド邸の門を開けた。広大な庭は薔薇の盛りだ。 
「よ、よくきたな」
 綿シャツにグレーのベスト、同色のパンツといういでたちで、家主は庭でワゴンを押していた。ワゴンの上には、ウェッジウッドのティーセットと、何か赤いハリネズミみたいなものが鎮座している。
 ハリネズミの針は良く見ると、赤い小さなローソクだ。数はざっと見ただけでも、百本は下らないだろう。ローソクの隙間から、白いクリームが垣間見えた。
 「あの、これは、ひょっとして・・・」
 「ああ、た、誕生日ケーキだ。
 べ、別にお前に手作りケーキを食べさせてやろうとかじゃあ」
 悪い予感があたった。
 最後まで聞かず、本田はさっと手に抱いた箱を開けた。
 「ケーキならば、私が手作りしてまいりました!
 アーサーさんに召し上がって欲しくて、愛を沢山込めたんですよ!」

 一抱えもある箱のなかには、赤いイチゴが瑞々しいバースデーケーキが収まっていた。

 ローソクこそ立てられていないが、ケーキの中央にうやうやしく飾られたチョコレートのプレートには、ホワイトチョコで本田の気持ちがしたためられていた。

 

『Happy Birthday My Dearest Arthur』


 「ほんだぁ」
 相手が感動している隙に、本田は赤いハリネズミをゴミ箱へ放り投げた。こんなこともあろうかと、相手を五分は人事不省にさせるような言葉を書いたのだ。

 そして、相手の注意を更にハリネズミケーキからそらすべく、本田は甘い言葉をひねり出す。
「私の作ったケーキと、アーサーさんの淹れるお茶。
 私達、二人でひとりですね」
「ああ、ああ、本田」
 にっこり微笑めば、アーサーの腕に抱きこまれた。
「本田、俺達もう、二人でひとりだよな」
「ええ、ええ」
 恋人の腕に身を任せ、囁きに答えると、頬に軽く柔らかなものが掠める感触がした。
「この日が辛かったのは、俺だけじゃないよな」
「え?」
 抱きしめられていては、相手の顔が見えない。薔薇を揺らす風にまぎれ、アーサーの消えそうな呟きを、本田は必死で拾った。
「お前は、いつも夏はイベントばかりで楽しそうにしていて、この日を憂鬱に過ごすのは俺だけだと思っていたけど、違うよな」
「・・・」
「俺がどんなに誘っても、お前はイベントに行っちまうけど、お前だってこの日を覚えているよな」
「・・・忘れるわけ、ないでしょう」
 確かにアーサーは、八月によく声をかけてきた。
 でも、薔薇がもう終わりだからとか、肉じゃがを食べたいとか、スコーンを作りすぎたとか、挙句の果てにはプールや映画の無料券の期限が八月末だとか、どうでもいい理由だったので、適当な理由をでっち上げてあしらってきたのだ。
「もしかして、誕生日を今日にしたのも、」
 肩口に埋められた金髪頭が、縦に動いた。
「誕生日ならば、お前だってイベントより恋人を優先するだろう。
 もう、この日を一人で過ごしたくないんだ」
 寄りかかってくる頭の重さを本田は受け止め、背中に回す腕の力を強めた。
「私は今日が大嫌いでしたが、あなたの誕生日ならば、大好きになれそうです」
「・・・ほんだぁ」
 アーサーは早くも涙をこぼし始めている。肩口に濡れた感触を感じた本田は、それをとがめもせず、陽光に映える金髪をかき混ぜて続けた。
「じゃあ、まずはケーキを食べて、プレゼントを開けましょうね。
 それから、アーサーさんの行きたいところに参りましょう。

 観劇でも、ライブハウスでも、アーサーさんのお望みのままに。

 夕飯は豪華なレストランでもいいですし、私がこの家で腕を振るってもいいですね。
 夕食のあとはお酒を飲んで、その後はアーサーさんの大好きなことを沢山しましょうね」
「・・・完璧な誕生日だな」
 しゃくりあげる恋人に、本田は耳元で囁いた。
「ええ。今日は特別な日ですからね」

 風は薔薇の香りがするし、きっといい誕生日になるだろう。

 

※ 本田さんはカークランド氏の誕生日とコミケがかさなったら、

間違いなくK氏の誕生日は手抜きしそうだ。一日中売り子とか。

タイトルは『ウェディングピーチ』のきめセリフを改変。

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