正確には英→←日←大人海。大人海視線です。

 

 昔々その昔。
 僕はよく会議場の廊下で居眠りした。挨拶をしても暴言を吐いても誰も反応を示さない冷たい空気に苛立って、疲れて、そして兄により放り出された僕は、嫌がらせのように議場の出入り口付近にあるソファーに横になったのだった。
『おやおや』
 そうすると、いつもジャケットを肩にかけてくれるひとがいた。最初に忍び込んだ会議で唯一、ぎこちなく会釈を返してくれたひとは僕の髪や額や眉を撫でて、小さな声で歌ってくれた。

Greensleeves was all my joy
Greensleeves was my delight,
Greensleeves was my heart of gold,
And who but my lady greensleeves.


 懐かしい子守唄は僕を底の見えない焦燥から解放してくれた。柔らかな光の中で、『シーランド』はただの子供のままでいることができた。 

 彼がさりげなく声をかけてくれるようになったおかげか、僕は認められないまでも無視されることはなくなった。人々は自国の子供にするように僕の頭を撫で、菓子や冗談を与えてくれた。
 でも、誰が何をくれようとも、最初に僕を瞳に映してくれた人を忘れることはなかった。
 深い夜の色を求めて僕は歩き出した。

 

彼の人の歌いたまいし

 

「シーランド君」
 僕が大人になった日、彼は時計を贈ってくれた。
 彼からはたくさんのものを貰った。
 アクションヒーローの玩具、鉄道模型、百科事典、マウンテンバイク、携帯デジタルプレーヤー。手足が長くなるにしたがってプレゼントも変わっていった。誕生日が来る毎に秘かにそれが嬉しかった。
「ご立派になりましたね。
 昔、会議場で挨拶をなさった頃が嘘のように本当に大きくなられましたね」
 白い顔が僕を見上げる。僕の背は疾うにこのひとを追い越した。
 艶やかな髪を見下ろした時、僕は初めてこの人が儚いことに気がついた。
 僕を励ますひとの、優しいけれど空虚な笑顔を埋めたくて、僕は急いで大人になった。
 善行も、そしてそれ以上の悪行もしでかして、他人の幸福を盗んで僕はこの海に君臨している。

 「あなたが好きです」
 パーティ会場である薔薇園の喧騒から離れた裏庭で想いを告げると、彼は思ったとおり小さく笑った。
「誰か好きな人がいるんですか?」
 彼は笑う。曖昧な笑みは、彼の恋が不幸なものであると示していた。
「僕では代わりになりませんか?」
 ゆっくり、細い腕が僕の前髪に伸びた。そして、眉の輪郭を丁寧になぞっていく。
「シーランドさん。
 今だけ、ですよ」
 小さな顔が近づく。まつげの長さを確認してから目を閉じると、しっとりと唇があてられた。
 唇にではなく、まぶたに。
「ごめんなさい。
 私はあなたにふさわしくありません」
 どうか他の方を選んでください。
 遠まわしな言い方を好む彼にとって、最もはっきりした拒絶なのであろう。申し訳なさそうに途切れる声に対して僕は何も言えなかった。


 広間から庭に漏れる明かりを頼りに、乱痴気騒ぎの後始末をした。
 彼は接吻ともいえない行為のすぐ後に、薔薇園から去った。
 振り返らない背中は消えそうで、でももう子供のふりをして抱きつくことを許さなかった。
 僕にはもう、あの手を握る資格はないし、あの肩を抱く権利は手に入らなかった。
「まさか、お前が成人するなんてなぁ」
 ベンチに寝そべる長兄がつぶやいた。
「あーあ、昔は生意気で可愛かったのによぉ。
 イギリスの野郎、認めやがれですよ!って毎日俺の行く場所行く場所ついてきて騒いでさ」
 酔っているのか、兄の言葉には勢いがなかった。
 おそらくアメリカ兄さんに裏切られてどこかのネジが外れた兄は、時々こうやって故障する。粗野な口調も礼儀正しい物腰もなくなり、ただ寝転がってほうけるのだ。
「あーあ、シーランドが大人かぁ。
 雷の夜には俺のベッドに潜り込んできたくせになぁ。
 仕方ねぇなぁって頭撫でると喜んだのになぁ。」
 聞き取れない呟きが続く。僕は慰めこともせずに黙って汚れたグラスをワゴンに回収した。
「あーあ」
 ため息が繰り返された後、鼻歌が聞こえた。

Alas, my love, you do me wrong,
To cast me off discourteously.
For I have loved you for so long,
Delighting in your company.

 このメロディには覚えがあった。
「兄さん、その歌は?」
「ああ?ただの民謡だ。子守唄代わりに赤ん坊のお前にも歌ってやったろって、もう覚えちゃいないか」
 続くメロディに、記憶の奥の歌声が重なる。
 低音のしっとりとした歌声にあわせて、僕の髪をなでる冷たい手のひら。
 ソファーのひんやりとした人工皮革。
 柔らかな膝枕。
 遠くに聞こえる議論。
 何年も前の懐かしい音楽。
「皆俺を置いていっちまう」
 兄さんがつぶやいた。
 『皆』が次兄と僕のほかに誰を指すのか、問う必要はなかった。

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