注:オフ本「真珠夫人」に盛り込めなかったエピソード(第六章・第七章の時間軸)。 見返りのない愛
「ほしいのは、見返りのない愛、ですかね」 「そんなものが、この世にあるとでも思っているのかい?」
序幕
秋葉原へ行く前に新宿に寄りたい、と本田が言った。 彼の右手に下げられた紙袋を覗いて、アルフレッドは瞬時にその理由を悟った。無造作に放り込まれたプレゼントボックスの数々。中にはリボンをかけられたままのものまで混じっている。数ヶ月前には意気揚々と送り出され、今となっては売られる運命の、哀れな哀れな貢物たち。 「さっさと終わらせるんだぞ」 肌を刺す夏の日光に、アルフレッドは小さく舌打ちをした。
第一幕 午後の騒動
騒動が起きたのは、東京で行われた会議であった。 コーヒーブレイクの時間、議長席で各国の提案をチェックしていた本田は銀髪の青年に声をかけられた。細身の黒いスーツを着こなした男は、特徴的な紫の瞳もあって、鋭角的な印象を与える。 「おう、調子はどうだ?」 他者へ与える印象に似合わず、もたもたとギルベルト・バイルシュミットは本田の隣に腰をかけ、その胸ポケットを覗き込む。本日の議長は青年へ一瞥を投げ、再び机上に目線を戻した。 「皆さん好き勝手おっしゃって、落としどころがまるで見えません」 カリカリ、と安物のボールペンが紙を走っていく。参加者の多くが歓談に興じている中で、議長席の周りだけが違う部屋にいるように静かだった。フェリシアーノの明るい笑い声もここからはひどく遠い。野暮ったいグレーの背広に黒い髪を揺らし、本田はただひたすら議長の仕事に没頭していた。 「議長も大変だな。あの、よぉ」 ギルベルトはおずおずと問いかけた。 「俺がこの間やったモンブラン、使わないのか?」 「ああ、あれは」 本田はアメリカ提案の第二文にアンダーラインをひきながら告げた。 「もう処分しました」 ぱちり、ぱちり。ギルベルトの紫の瞳が二度ほど大きく瞬きをした。 「処分って、どういうことだよ」 「売りました。不用品を持っていても仕方ないでしょう」 「不用品って何だよ」 ギルベルトは震える声を懸命に抑えた。銀髪の下のこめかみが引き攣れ、紫の瞳は黒い瞳を射るように凝視する。だが、本田はその眼差しを気付くこともなく、アメリカ提案の第三文に×印をつけていた。 「不用品って、お前、モンブランの創業百年記念の限定モデルだぞ。あれを手に入れるのに、どんなに苦労したと思っているんだ」 「でも、うちにはもうペンが山のようにありますから。むしろ我が家で死蔵されるくらいならば、どこかの愛好家の手に渡ったほうがいいでしょうし」 「お前だって雑誌見て欲しがっていたじゃねぇか」 ギルベルトの努力にもかかわらず、その語尾はかすかに震えていた。頬にさした赤みはいやおうなく彼の感情を代弁している。それでもなお、本田はペーパーに注釈を入れる作業を止めなかった。 「お前が欲しいっていうから、俺は」 「よく覚えていませんが、その時は欲しかったのでしょう。でも、もう要りません。 それに、私があなたに買って欲しいとお願いしたわけではないですから」 「なんだよそれ!」 青年の忍耐がついに限界を迎えた。 薄い肩を乱暴に揺さぶり、無理やりにその顔をあげさせた。 「俺は、お前が喜ぶと思って、金だって時間だって散々かけて、やっと買ったんだぞ!」 銀髪の青年の激高とは対照的に、本田の表情は静かだった。議長として発言者の名前を呼みあげるときと同じように、淡々と応じる。 「何故私が、あなたの期待通りに喜んでみせなくてはならないのでしょうか。 わけのわからない想いが込められた贈り物など重くて重くて仕方がない。 勝手に不用品を贈られ、勝手に期待されて良い迷惑ですよ」 「ふざけるな!」 罵声に議場のざわめきが止まった。あっけなく気持ちを否定された青年は、憎しみを込めて能面のような顔に腕を振り上げた。 「ひとを馬鹿にしやがって!」 腕をうねらせ、逃げようともしない相手に叩きつける。議場のどこかから悲鳴があがった。
第二幕 望み
「・・・」 目を閉じた見物人たちの耳に聞こえたのは、肉を打つ高い音ではなかった。小さな叫びと、床に落ちた靴が起こす低い音が議場にこだまする。 「暴力はダメなんだぞ」 履いていた革のスニーカーを投げて、見事ギルベルトの手に命中させた青年は、靴下のまま早足で議長席に向かった。 「大丈夫かい?菊」 「ええ。いつもながらすみませんね」 平坦なバリトンが会議場の沈黙に響いた。そして、さっさと本田は意識を作業へと戻す。痛む手を数秒間凝視したのちに再び喚きだしたギルベルトは、アルフレッドにより押さえつけられ、駆けつけたルートヴィッヒに引き渡された。 「ギルベルト君も馬鹿だよね。 高価なプレゼントをあげたって、本田君には無駄なのに。 何をあげたって捨てちゃうんだもん」 無邪気な笑い声をあげるのはイヴァンだ。だが、このときにさすがにそれに追従する者は少ない。巨体の影で、小柄な少年が困ったように愛想笑いを浮かべているだけだ。 「ねぇ、皆聞きたいと思うけど、本田君の欲しいものってなあに? そもそも欲しいものってあるの?二次元関係以外でさ」 「そうですねぇ・・・。ほしいのは、」 窓からは夏の日差しが入り込んでくる。ようやく、参加者達は会話を再開した。カップとソーサーがぶつかる硬い音があちらこちらから聞こえ、再び室内に賑わいが戻る。だが、アルフレッドはかなりの人数が本田の返答に注意を払っているのに気がついた。彼自身も、本田の手元を覗き込む振りをして、じっと耳をそばだてている。 顔をあげた本田は、イヴァンに向けて小さく笑った。
「見返りのない愛、ですかね」 少なくとも、贈り物を処分された位で裏切られたと騒がない位の、ね。
「本田君はロマンチストだなぁ」 「ええ、私ロマンチストなのですよ。ご存知ありませんでしたか?」 イヴァンと本田の間の抜けたやり取りを耳にしながら、幾人が息を呑んだだろうか。 「そんなものをいただいてしまったら、なびかないわけにはいかないでしょう」 透き通った黒瞳にとらわれた客達が、また本田家に押し寄せるのだろう。そして報われぬ思いをもてあました誰かが暴れ、アルフレッドが制止することになるのだ。 その光景を、高嶺から眺める支配者が本田だ。獲物を追い詰める猫のように唇をあげた顔はいびつでも美しかった。 アルフレッドはため息を隠し、本田の手元にある米国提案の×印の上に更に〇を重ねる。視界の端に、こちらを強くにらむ兄の姿をとらえながら。
終幕 照らされしものは、
数多くの見物客とともに、アルフレッドは薄暮の土手に腰を下ろしていた。傍らには茶色の子犬、まとうのは白地に水色の格子柄の浴衣。子犬と自分を交互にうちわで扇ぐ様は、日本通の外国人そのものだった。時折、通り過ぎる客の群れからぶしつけな視線が投げられた。 会議後、アルフレッドは本田とマシューとともに、本田家近くの川で開催される花火大会へ出かけた。双子の兄弟よりも早く浴衣を着終えた彼は、一足先に場所取りにきたのだ。 駅からの人ごみに目を投げると、見慣れた金の前髪が飛び込んできた。人の流れの中で頭ひとつ分突き出した双子の顔は、祭りの場にはふさわしからぬ困惑した表情を浮かべていた。 「どうしたんだい?」 「本田さんが、ルートヴィッヒさんと喧嘩しちゃって」 手を上げれば、マシューは真っ直ぐにアルフレッドの元へ走ってきた。少し後ろから、携帯電話を耳に当てた本田がゆっくりと足を進めるのが見えた。少し寄せられた眉は、彼が不機嫌な証だ。電話を切り、双子の間に座った本田に尋ねれば、案の定昼間の騒動のことだという。 「ちょっとした見解の相違ですよ」 うそぶく本田は花火の数に話題を移し、これ以上の詮索を拒絶した。 いつからか、本田は人で遊ぶようになっていた。 優しくし、甘く笑いかけ、徐々に対象の心を蕩かしていく。そして、相手からの愛の告白があると、これを冷たく叩き潰す。そのころには、相手はすっかり飼いならされ、本田から離れることも出来ずにただの玩具に成り果てるのだ。 そして、本田を悪魔に変えたのは、ほかならぬアルフレッドと兄だった。彼と兄との美しい世界を弟が壊し、嘆く彼を兄は捨てた。今の本田はすべてに復讐しているだけに過ぎない。破壊者の兄弟と、運命と、愛とに。 「今日はお世話になりましたね。 ヒーローさんには後で何をご馳走しましょうかね」 口数の少ない年下の友人に気を使ったのか、本田がのんきに手をうった。と同時に、ひゅるひゅると人魂にも似た炎が闇の空へ昇っていく。 「いらないよ。 何か欲しくて君を守ったわけじゃない」 花火を追う本田の横顔を見つめて、アルフレッドは嘘をついた。横顔だと彼のまつげの長さがよくわかる。綺麗な綺麗な本田菊は、その顔を照らす花火の白光よりも輝いていた。
「ねぇ、菊。 君は見返りのない愛なんて、この世にあると思うのかい?」
口から出かけた問いを、碧眼の若者はコーラで飲み込んだ。
「無償の愛なんて、聖人だけがもてるんだよ。 人間だったら、愛する人に愛されたいのは普通だろう? 俺だって君に愛されたいよ。だから君を守るんだ。 君だって、彼に愛されたいだろう?」
だが、今更何を言ったところで、本田の心には届かない。 そして、本田に説教をする資格も、愛を語る権利も、アルフレッドにはないのだ。 身の程はアルフレッド自身が良く分かっていた。
「じゃあ、私とマシューさんは帰りに『双葉』で焼き鳥を食べて帰ります。 アルフレッドさんは家で残り物でも食べてください」 「つくね食べたいです。大食らいがいないとゆっくりと食べられるなぁ」 「今日の残り物はゆですぎた素麺と大分前に買った納豆ですよ」 年上の友人は軽口と二発目の花火を待つことに忙しく、若者の内心には気がついていないようだ。アルフレッドは失望と安心の両方を感じながら、雑談に参加した。 「やっぱ俺も行くよ。俺がいないと寂しいだろう?」 二発目の花火は金色の菊の花。若者の頭上で破裂し、尾を引いて消えていく。いつまでも網膜に残る残像は、その名を持つ人と同じように鮮やかだった。 |
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