可愛くないひと
本田菊は可愛くないと、アルフレッド・ジョーンズは常日頃思っていた。 確かに、容貌は文句なく可愛い。艶やかな黒髪は柔らかく風に揺れるし、透明な瞳はどこまでも真っ黒で宇宙みたいだ。小さな鼻はキュートで噛み付きたくなるし、桜色の唇は吸い付きたくなってしまう。華奢な身体は腕の中に納まる大きさだし、兄が手放さないのもよくわかる。 でも、問題は性格だ。 細かくてよく怒る。柔らかい物腰で油断させて、いつの間にか美味しい部分をとっていく。都合の悪いことを言われると耳が遠くなったふりをするし、老人を大事にしろと文句を言って何かとアルフレッドをこきつかう。おまけに、外面は良いから、アルフレッドが被害を語っても誰も信じない。偏屈で頑固なうえに、抱き枕と寝ているような変態老人だ。
平和な日曜の朝、アルフレッドはいつものように本田の屋敷を訪れた。目的はゲームと漫画と、本田菊。
それが、その日の悪運のはじまりだった。
呼び鈴を鳴らしても応答がないので、庭に回りこむと聞こえる水音。年上の友人の風呂好きに苦笑しながら木枠越しに窓を開けると、本田はあられもない姿で兄にまたがっていた。 「あ、いやぁ、アルフレッドさんが、」 「かわいい菊のロデオ、アルにもしっかり見せてやろうな。ほらっ」 「らめぇ、アーサーさんったら」 朝から生々しい光景を見せられ、おまけにプレイの小道具にされてしまった。 「やぁん、アーサーさぁん」 行為中ということをのぞいても、本田の態度は明らかにアルフレッドに対する横暴な態度とは異なる。 いつもは自称ウン千歳とか威張っているくせに、この甘えきったあえぎ声は何なのだろう。 「君達の変態セックスなんて見たくもないんだぞ!」 19歳は乱暴に窓をしめ、縁側に避難した。
大きな仕事を抱えたアーサーは朝のうちに家に戻った。彼が身支度を整えている間に。本田は一汁三菜揃った朝食に加え弁当まで用意する。 アーサーはもう平時の無愛想な態度に戻って、感謝の言葉もぶっきらぼうだというのに、かいがいしく尽くす様はまさしく伝説の大和撫子だ。 そして、大和撫子は英国紳士が消えるや否や意地悪な頑固じじいに豹変するのだ。
恋人を送り出した後、本田は台所ではなく寝室へ向かった。 「私はもう一眠りします。申し訳ありませんが、皿を洗って風呂を掃除して、ついでに洗濯もしておいて下さると大変ありがたいです。年をとると家事もおっくうでなりません。アルフレッドさんのお手伝いにはいつも感謝しているのですよ。 あなたのような方こそ、高齢化社会を救うヒーローですよ」 「俺、かっこいいかい?」 アルフレッドが興奮すると、本田は大きくうなずき、そして寝室に入る。残されたアルフレッドは食器洗い、風呂掃除、洗濯と着々と任務を完了し、寝室へ報告に向かった。 家主を起こさないよう、そっと開けた襖の向こうでは、布団に入ったままの家主がゲーム機を操っている。 「なんだい、君、俺を働かせ」 労働者の抗議は慈しみ深い笑みで封じられた。 「ありがとうございました。 アルフレッドさんが家事をしてくださったおかげで、とてもよく休めました。 偏頭痛も治って、ゲームができるまでに体調がよくなりましたよ。 アルフレッドさんは本当に、頼もしいですね」 「だって、俺はヒーローだぞ!」 「ええ、ヒーローですとも!」 的確に相槌をうち、本田は小首をかしげて手を合わせた。 「力持ちのアルフレッドさんにしか頼めないお願いがあるのですが…」
こうした調子で二時間、腰や背中をもまされ、くたびれ果てたアルフレッドを待っていたのは、残り物とそうめんの昼食だった。 「これ、朝も食べたよね?」 食卓の上には、梅干、オクラの和え物、納豆、そうめんという、19歳の若者には物足りない品々が並ぶ。 「ねぇ、菊、もっとがっつり食べたいんだけど。カレーとか!」 「そうしたいのはやまやまですが、料理も体力を使うでしょう。私も結構な年ですからねぇ」 「近所にはコンビニもあるじゃないか!」 「コンビニの弁当は保存料が入っていて余り身体によくないですよ」 本田はアルフレッドの抗議を無視して、そうめんをすすった。 「ほら、今日はめんつゆの出来がいいです。さっさと食べて、午後に備えてください」 「午後?秋葉原かい?」 目を輝かせる年下の友人に、本田は柔らかな低音で告げた。 「午後は、家庭菜園の草むしりですよ」
午後の強い日差しの中、アルフレッド・ジョーンズは広大な庭の一角にある家庭菜園を這っていた。 家庭菜園はこの春、『新鮮な野菜による健康的な食事がヒーローの血肉を作るのです』とのスローガンにより庭の一角に作られたものだ。計画したのは老人、そして実際の作業を担当したのは子供だ。それでも、春には弁当を食べたり、蝶と戯れだり、子供は楽しく作業したものだった。しかし数ヵ月後の今、そのように作業を楽しむ余裕は彼にはなかった。むしろ、数ヶ月前に戻って、嬉々として土を耕す己を説得する妄想にかられるくらいだ。 麦わら帽子の下の額からは、大量の汗が噴出する。都会に住み、日中は冷房の効いたオフィスや自宅にいる身には、アジア特有の湿気の高い暑さはつらかった。 「菊、暑いよぉ。もうクーラーに当たって漫画読みたいんだぞ」 「この位の暑さでへばっては、火事で人を助けられませんよ。 やはりヒーローたるもの、雨にも風にも夏の暑さにも負けず、丈夫な身体を持たないといけません。 鍛錬にもなるし、美味しい野菜も食べられるし、一石二鳥でしょう」 そうのたまう本田はといえば、木陰で煎茶をたてている。白の絽の着物をまとう姿は、涼やかなものであったが、直射日光に当たり続けているアルフレッドには恨めしい限りだった。 「この畑、君は俺のために作ったとか言うけど、俺は騙されないんだぞ! 君はどうせゲームとかフィギュアを買いすぎて、節約しようとしているだけだろ」 「大食らいのメタボが毎日のように押しかけるから、我が家のエンゲル係数が上がる一方ですよ」 老人は鼻で笑い、それから冷酷に告げた。 「働かざるもの食うべからず。今晩もそうめんにしましょうかね。 そこに沢山、あなたの大好きなトウモロコシがなってますけど」 どうやらアルフレッドには、鎌をとるという選択肢しか残されていないようだった。
ようやく草むしりを終えると、本田の姿は木陰にはなかった。その姿を探す余裕もなく、若者は首に巻いたタオルで顔を拭き、縁側にへたり込んだ。ぼんやりと入道雲の中に天空の城を探していると、屋敷の奥から声が聞こえた。 『本当にありがとうございます。あなたは本当に頼りになる方ですね』 「当然さ!俺はヒーローなのだから」 背後から聞こえる賛辞に、アルフレッドは気をよくした。 きっと本田は優しい笑顔で、冷たい麦茶とスイカを用意しているのだ。 「きーくー」 疲れも忘れ、居間へ目を向けた若者は、凍りついた。
本田は電話中だった。 何のことはない、賞賛はアルフレッドではなく、電話の向こうにささげられたものだったのだ。 しかも、次の言葉は朝から労働をし続けた若者を打ちのめした。 『アーサーさんがお醤油買いに行ってくださったから、助かりました』 あえて空気を読まないことを信条とする若者でも、ここまでひどくはない。 アルフレッドは朝から容赦なくこき使われるのに、その兄は「はじめてのお遣い」レベルでべた褒めされるのだ。 『ええ。存じてますよ。全部アーサーさんご自身のためなのですね。 でも、私はあなたのために料理ができて幸せでした』 『もうすぐ、庭でニンジンが穫れそうです。召し上がりたかったら、早く来てくださいね。 あなたのために植えているのですから』 アルフレッドは渾身の力をこめて叫んだ。 「この、狸じじい!」
電話を終えた本田は、居間の畳で寝そべるアルフレッドを見つけた。 「泥だらけじゃないですか。 早く風呂に入って着替えてください」 本田はそっけなくアルフレッドの身体をまたぎ、食堂を通って台所へ向かう。本田は兄の前ではこのように行儀の悪いことは決してしないくせに、アルフレッドの前では実に横着きわまりない。アルフレッドは寝返りをうち、本田に背を向けた。 「…もう俺は菊の頼みなんか聞くもんか。 俺は君以外の皆のヒーローになるんだぞ」 「お好きになさい。ただし、早く着替えてください。部屋が汚れます」 ねぎらいもなく部屋の汚れを心配する老人の態度は、若者の怒りをあおる。背を向けたまま、顔の見えない相手へアルフレッドは叫んだ。 「君なんか大嫌いだ! アーサーさん、アーサーさんって、あいつのことばかり大事にしてさ。 君のために頑張っているのは、俺なんだぞ」 「アーサーさんは私に迷惑をかけませんが、あなたは私に迷惑ばかりかけるでしょう。 少しくらい働いたからって威張らないでください」 背後から聞こえる声はあくまで落ち着いていて冷たい。 「お風呂入ってくださいね、いいですね」 引き戸を閉める音とともに、本田の声も途切れた。
アルフレッドはたっぷり一時間、本田の愛犬相手に風呂で泣いた。 ポチが悲しそうな目をするので、若者も益々悲しくなった。 そして、風呂から上がった後は、ポチを従えて居間に直行する。荷物をとったら、すぐに帰宅するつもりだった。 「おや?遅かったですね。こちらはもう夕食の準備までできましたよ」 居間では本田が眼鏡をかけて新聞の日曜版を読んでいる。駆け寄る愛犬を膝にのせてあやすが、アルフレッドへ目線を向けない。そっけない態度に、子供の胸がえぐられたように痛む。 「もう帰るよ」 「そうですか。では、蒸し器にトウモロコシがふかしてありますから、今召し上がってから帰るか、持ち帰ってください。 一人では食べ切れませんから」 「わかったよ。いつも大変ご迷惑をおかけして恐れ入りましてすみませんですよ」 冷静な口調に、アルフレッドは切り口上で答える。 台所の引き戸を開けると、熱気とカレーの匂いが襲ってきた。 「今晩は庭の野菜を使った野菜カレーですよ」 「どうせ手抜きなんだろ」 「食べたいって言ったのはあなたでしょう」 「そうだっけ?」 背後からの声に振り返りもせず答え、冷蔵庫へ直行する。 コンロを見れば、蒸し器の横には大なべいっぱいのカレーがぐつぐつと煮込まれている。実に暑苦しい。 アルフレッドはポットに口をつけて麦茶をあおった。 居間にいくのも嫌なので、冷蔵庫を開けて立ったままトウモロコシをほおばる。収穫したてのトウモロコシだけが持つ甘さが口の中に広がり、アルフレッドのささくれた心を癒した。 ぐつぐつと、カレーが煮える音が台所に響く。先ほど風呂で流したばかりなのに、またじっとりと汗が吹き出てくる。 ふと、この時期にこの部屋で料理するのは大変だな、と思った。 『ねぇ、菊、もっとがっつり食べたいんだけど。カレーとか!』 そして、若者は唐突に昼食の場での自分の発言を思いだした。 「・・・あ」
振り返れば、本田と同じくらい、自分も本田に対して横暴だ。 アポなしで押しかけるのは当たり前。 本田の大事なゲームを返し忘れるのは日常茶飯事。 何より、どんなに本田が親切にしてくれても、礼を言うことは滅多にない。 今日だって、本田は突然の来訪を受け入れ、昼食や夕食をこしらえ、風呂を用意してくれたというのに、一言も感謝の言葉を口にしていない。口から出たのは、不平不満ばかり。
「でも、俺がすごくこき使われているのは事実だぞ。そのくらいしてくれたって」 とっさに思いついた言い訳は、自分を納得させる程の説得力はなかった。 いつだって、アルフレッドは本田に甘えてばかりだ。甘えて、頼って、与えられるのが当たり前だとばかりに礼も言わない。本田にとっては、ただの我侭三昧の手のかかる子供なのだろう。 それでも、小言を言いつつも、いつもアルフレッドの面倒を見てくれる。 イギリス人の好きなニンジンと一緒に、アメリカ人の好きなトウモロコシも植えてくれた。 ちょっとした食事のリクエストにも応じてくれた。 感謝されなくても、いつも本田はアルフレッドのことも考えてくれる。 不器用で優しい、年上の親友。 本当はとても可愛い本田菊。 アルフレッドは麦茶ポットをシンクへ置き、大股で居間へ向かった。
「菊、やっぱり俺は君が大好きなんだぞ!」 問答無用で膝に寝る犬ごと抱きつけば、本田はアルフレッドの金髪を撫でた。 「おやおや、どうしたのですか? カレーが食べたくなったのですか?」 落ち着いた低音の囁きは、アルフレッドをいつも安心させる。華奢な肩は柔らかくて、抱きしめると幸せな気分になる。 「ねぇ、菊。 俺、いつも君に感謝しているんだぞ」 アルフレッドの突然の言葉に、本田は大きな目をきょとんと見開く。 「いきなりどうしたのですか? あなたらしくもない」 続いて、胡散臭そうに眉を寄せた。 「俺らしくって、どういうことだい?」 せっかく盛り上がった気持ちに水を差されたアルフレッドが口を尖らせる。この仕草が実に子供っぽく見えることを、本人だけが知らなかった。 「子供っぽくて我侭で、他人の気持ちなど一切考えないで、ついでに後先も考えない。 レールから外れたジェットコースターみたいな感じですよ」 平坦な口調の辛らつな評価に、アルフレッドの高い声がうわずった。 「ひどいよ!菊、人がせーっかく、『ありがとう』って言っているのに、素直に受け取りなよ。 君は偏屈だな!」 アルフレッドの叫びを、本田は唇の端を吊り上げてせせら笑った。 「どうせ裏があるんでしょう? 今年はもうお誕生日は終わりですからね、何にもでませんよ。 クリスマスも神道式ですので、あしからず」 「俺が君にたかってばかりに聞こえるじゃないか!」 興奮して更に上ずる声に、冷静な低音がかぶさった。 「いつもたかってばかりでしょう」 「ひどいや!せっかく俺が、」 大げさに手を構えて主張する年下の友人を尻目に、本田は腰をあげた。 「お茶でも淹れますから、落ち着いてください」 そして、台所の引き戸を空けた瞬間、凄みのある低音が響く。 「おや、冷蔵庫が開きっぱなしですね。 あら、麦茶も出しっぱなし。 ほお、コップがありませんね。 さて、麦茶はどうやって飲んだのですか?」 「コップはちゃんと洗ったよぉ」 振り返る大人のこめかみは引き攣っていた。 「うそつきは何を飲むんでしたっけ?アルフレッド・ジョーンズさん」 低音の怒号が響き、犬はアルフレッドを置いて逃げ出した。
一時間の説教後、アルフレッドは深々と土下座をした。 「冷蔵庫を閉めないですみませんでした。 麦茶を出しっぱなしですみませんでした。 コップを使わないですみませんでした。 言いつけを守らないですみませんでした」 床につきっぱなしの金髪頭を、本田の黒瞳は満足そうに見下ろす。 「最初から素直に謝ればよいものを。可愛げのない」 「ねちねち怒る君こそ、可愛くないんだぞ。歳はとりたくないよね」 思わず漏れた本音を、本田はすばやく聞きつけた。またしてもこめかみが引き攣れる。 「ほお、今なんておっしゃいましたか?アルフレッド・F・ジョーンズさん」 説教の一時間延長が確定した瞬間だった。
説教の後、本田は食卓を整えた。 しかし、泣くまで叱られた子供は、好物のカレーにも殆ど手をつけなかった。 大人はため息をつき、冷蔵庫から小鉢を取り出す。 「今日は特別ですよ」 小鉢には三色のアイスクリーム。添えられたチョコチップクッキーの甘い香りが元気のない子供の嗅覚を刺激する。 「今日はいっぱい、頑張りましたね」 小さな手が伸びて、アルフレッドの頭を撫でた。 目線をあげれば、本田の黒瞳には自分が映っていた。 優しい笑みは、可愛いというよりも綺麗という表現が似つかわしい。 しばし、アルフレッドはその微笑にみとれ、やがて失望した。 黒い瞳にあるのは、友愛の情だけ。 所詮、その瞳が追いかけるのは兄だけなのだ。 「俺はヒーローだからね、余裕なんだぞ」 子供の強がりの真意は、大人に伝わることはないだろう。
本田菊は可愛いと、アルフレッド・ジョーンズは心の底では常日頃思っている。 でもその感情を認めるわけにはいかない。 余計なことを考えないように、アルフレッドはアイスクリームに集中することにした。 アイスクリームは甘くて、彼の希望通りゆっくりと思考を麻痺させていった。
⇒「可愛い人」(本田視点 朝菊(←アル)) |