1919年2月11日。 「その提案は賛成しかねる」 はっきりと、アーサーさんは言った。 「確かに、人種差別撤廃の理想は崇高だ。だが・・・・・・」 アーサーさんが淡々と、私の提案に反対する理由を挙げていく。 植民地統治。 国内世論。 彼の反対は十分に予測していたことだ。覚悟はできていたはずだ。 だが、現実に拒否の言葉を聞かされた途端に眩暈を覚えた。にじみ出てくる脂汗を気取られまいと、私は微動だにしないで彼の説明を聞いていた。
あなたも、私を見下していたのですか? 汚いと思いながら、私の手をとっていたのですか? 蔑まれたままで私の民が黙っていると思うのですか? このままでは、私はあなたの手を離さなくてはなりません。 ああ、悲劇の予感がする。
悲劇の予感
「十数年も同盟を結んでいながら、所詮は我らは猿にしか過ぎないのか」 日本大使館へ向かう車の中で部下がつぶやいた。 本国では紀元節の祝賀で盛り上がっている中、私達は世界大戦後の秩序を作るための会議でパリにいた。 目下の課題は人種差別撤廃条項の挿入。 開国以来、非文明国と蔑視されてきた我々にとって、この条項は誇りをかけたものであった。国内での期待も高い。 だが、数日後に控えた条項案提出の前に根回しをした大国の中には、この条項に反対する国も多かった。 その際たるのが、アーサーさん。 今日も上司同伴で会見したものの、芳しい感触を得られなかった。 「ああ、日本。お前、イギリスの弱点を知らないか? 醜聞でも、旧敵国との密約でも、なんでもいい。 とにかく我々の提案を呑ませるための取引材料が必要だ。 この提案が流れれば、国内世論は一気に反欧米に傾くぞ。 同盟破棄論も高まるだろうな」 上司がため息をつく。 「なんでもいいから、あいつからネタを漁って来い。 何したってかまわん」 これは、命令なのだろうか。 上司は私達の本当の関係など知らないはずだ。懐を探れるような近しい関係とは思っていないに決まっている。 でも、もし命令だとしたら、私はアーサーさんを裏切らなくてはならない。 「はぁ」 生返事を返し、私は目を閉じて睡魔に負けたふりをした。
まぶたに浮かぶのは、私の目を真っ直ぐに見ないアーサーさん。 私の肌を象牙のようだと慈しんでくれた彼は、私の提案を支持してくださらなかった。 十数年も傍にいたのに。ともに戦い、そして愛し合っているのに。 彼の側の事情は理解できる。でも、この提案は私には譲れないものだった。 ごうごうと、音を立てながら血液が巡回する。 脳の一部に芽生えた不信感が身体中に広がっていく。
『アーサーさん』は優しい方だ。 寂しがり屋で不器用な、愛すべきひと。 私の肌に接吻して、黒い髪を梳いてくれる。 長い人生で初めての恋人。 でも、『イギリス』は違う。 力なき国をねじ伏せ、二枚舌を持って諍いを広げる。 かつての栄光は失ったものの、なお広大な土地を支配する宗主国。 同盟国を切り捨てることくらいわけはないだろう。 思ってもいなくても侮蔑の言葉を口にするのも、きっと簡単だ。
私の提案に対して反発を表明したのはアーサーさんだけじゃない。個人的には仲良くしているアルフレッドさんだってあからさまに困惑をしてみせた。でも、彼からの反応には特に衝撃を覚えなかった。反対理由も米国内の世論を考えれば妥当なんだろうな、としか思わなかった。 アーサーさんからの拒絶だけが、私を奈落に突き落とした。 違う色の皮膚、異なる言葉、異質の文化。 身体を重ねたって、ひとつにはなれやしない。 どうしようもない事実を突きつけられれば、私は途方にくれるしかない。
その夜、駐仏大使主催の紀元節レセプションを抜け出し、私はセーヌ川の橋の下へ向かった。人目を忍ぶ恋人たちにふさわしい、暗くて目立たない待ち合わせ場所。橋のたもとにはちらほら人影があったが、約束の時間になってもアーサーさんは来なかった。 息を整え、数年前の誕生日に頂いた手鏡で身なりを確認して彼を待つ。 昼の会見では私の目をみなかったアーサーさん。 夜は私を見てくれるだろうか。 私に触れてくれるだろうか。 それとも、このまま待ち合わせに来ないのだろうか。 黒く揺れる川面を眺めながら考え込んでいると、弾んだバリトンが聞こえてきた。 「待たせたな、ごめん」 橋を渡ってベージュ色のバーバリーが近づいてきた。 闇にも鮮やかな色の花束を提げた異国の恋人は、あっけないほど簡単に私をまっすぐ見つめてきた。 「ごめん、その、上司に捕まっていて」 「いいのですよ。ここから見えるノートルダムは実に見事ですから、お待ちするのも楽しかったです」 笑顔を作れば若竹色の瞳がぱっと輝く。彼の感情の露出はコツを掴んだ者にとっては分かりやすい。ひねくれた素直さが私の心をいつも温めてくれた。 「誕生日おめでとう」 差し出されるのは赤い薔薇。 同盟締結以降、ほぼ毎年この日を一緒に過ごしてきた。 やむをえない事情でともに過ごせない時には、短い言葉が丁寧に書かれたカードとプレゼント、そして一抱えもある赤薔薇で居間が埋め尽くされた。 肌も瞳も髪も違っても、彼は私をいつだって幸福にしてくれた。 「ありがとうございます」 わざわざ手袋を脱いで差し出してくる手をとりながら、私は自分自身に言い聞かせた。 提案が通らなくても、私達は大丈夫。 国内で不信感が高まり、「日本とイギリス」の間の同盟破棄が叫ばれるだろうけれど、「私とアーサーさん」は大丈夫。 きっと何が起きても、こうやって誕生日には花束を贈ってもらえる。 アーサーさんの手の皮膚は心地よくて、いつまでも私を包んでくれるように思えた。
回り道をしながら行きつけのレストランへと向かう。 さすがに提案の話はでないけれど、仕事の話を含めてあれやこれや話しながら街を歩く。ショーウィンドウを覗き込むのも、二人ならば楽しい。 「あの柱時計、素敵ですね」 「少し高すぎないか?一等地だからって吹っかけてやがる」 高級住宅地の時計店。 鏡をはめ込んだモダンな柱時計に、私の目は釘付けになった。アーサーさんはあまり好みではないみたいだけど、新奇なデザインはなかなかに悪くないと思う。 「確かにお値段高そうですね。 高価な材料は使ってなさそうなのに」 「だろ。さすがフランス、こんなところまで気取ってる」 些細なことをぐだぐだと話すのも、アーサーさんとならば楽しい。 でも、私は気がついてしまった。 数メートル後ろから私達を監視する影に。 柱時計に嵌めこまれた鏡には、人ごみにまぎれてこちらを窺う男の姿があった。セーヌでアーサーさんを待つ間にも、似たような風体の男を見た覚えがある。 「きっとデザイン料がかかったんでしょう」 震えそうな声を何とか平坦に保ち、私は会話を続けた。 「ほら、説明文に何かすごい賞を受けたと書いてありますよ」 はしゃいだ声をあげながら、私は神経を尖らせて相手を観察する。 どこの国の者だ。 どこから尾行してきた。何が目的だ。 ぐるぐると疑問が渦を巻く。 でも、ひとつだけ分かっていることがあった。 あの男は私をつけてきたのだ。 あの男はアーサーさんが姿を見せる前にセーヌにいた。 彼を遣わしたのはアーサーさんの上司か、私の上司か、もしかしたらアルフレッドさんの上司か。今の私にはわからない。その目的もわからない。 だが、確かなのは、私が誰かに警戒されているということだ。
『なんでもいいから、あいつからネタを漁って来い。 何したってかまわん』
上司の言葉が耳元で繰り返される。 いつか誰かの命令で、アーサーさんは私を探るかもしれない。 いつか上司の命令で、私はアーサーさんを調べるのかもしれない。 恋人として抱き合っても常に腹の底を探りあい、相手が寝入っている隙に機密情報を入手しようと鞄を荒らす日が来るのかもしれない。 私は日本で、彼はイギリス。 利害が一致している間は二人で世界を敵にまわすこともできた。 でも、これからは違う。 人種差別撤廃条項だけでない。今後「日本」の進む道はおそらくは世界一の大国に成長した「アメリカ」と衝突する。覇権を失い「アメリカ」の言いなりになるしかない「イギリス」は、いつか「日本」の前に立ちはだかる。
敵になっても、「アーサーさん」は誕生日に薔薇をくれますか? 薔薇の棘には、毒が塗られていないですか? そろそろ潮時なのかもしれませんね。
「アーサーさん、ごめんなさい。 私、実は今日あまり時間が無いのです」 私はウィンドウの中の柱時計を指した。 「もう行かないと。アーサーさん、本当にごめんなさい」 「ああ、そうか」 一瞬だけ、アーサーさんの笑顔が強張った。 彼ももしかしたら、私を疑っているのかもしれない。 私が提案の根回しに誰と何をするのか、推し測っているのかもしれない。 そして、そうやって愛する人を疑ってしまう自分が浅ましく、恥ずかしかった。このままいけば、私はアーサーさんを陥れることもやりかねない。 「お前も忙しいしな、次、埋め合わせしろよ」 「ええ、必ず」 アーサーさんは深くは尋ねずに髪を撫でてくれた。私のものより大きな手に頭を預ければ、額に軽いキスをくれた。 できるならば、この瞬間にその口で私を喰らってほしい。 叶わない願いは声に出さずに、私は出来る限り綺麗に微笑んだ。 記憶に留めて欲しいのは菊の花に喩えてくれた笑顔でいたかったから。この身が醜い夜叉に転じる前に、私は彼から離れたほうがいい。
影は宿泊先まで私をつけてきた。結局、どこの国の者だか最後までわからなかった。 冷えきった部屋に戻った私は薔薇をバスルームのシンクに放り込み、一人には広すぎるダブルベッドに飛び込む。 別離を回避するのは諦めていた。 国という存在が国民以外の存在を愛してしまうことこそが、悲劇なのかもしれない。ならば、別離は歪んだ状態を正常に戻すだけであり、私達の本性にのっとった、喜ばしいことなのだろう。今は辛くとも、きっといつか選択の正しさを思い知るはずだ。 それでも、この十数年、二人で過ごした誕生日は幸せだった。 その一日があれば、残りの364日がどんなに辛かろうが耐えることができた。いびつであっても、刹那であっても、きらきらと私の胸を照らしてくれた。 二千年以上の年月の中で、誕生日が本当に嬉しいと思ったのは、きっと薔薇の花束を贈られるようになってからだ。 温室で大切に育てた薔薇。 ロンドン中を歩いて選んだプレゼント。 何度も推敲したカード。 それから照れた笑顔とキス。 春の縁側のように優しい時間。 でも、近いうちに、薔薇もプレゼントもカードも贈られない誕生日を迎えることになるだろう。 自分から言い出すのか、アーサーさんから切り出すのか、誰かが無理やり仲を裂くのかはわからないけれど、私は一人きりで誕生日を過ごすことになるだろう。贅を尽くした贈り物も、飾り立てられた祝いの言葉も、華やかな宴も、アーサーさんがいなくては無意味なのに。 からっぽの誕生日が来る前に、できるだけ一人であることに慣れなければ。 バスルームから漂う彼の香りに包まれながら、私は悲劇に慣れようとあがいていた。 「悲劇の終わり」→ |