←「悲劇の予感」の続きです。時代設定は戦後の2月11日。
その報告を聞いたのは、一月ほど前のことだった。 『紀元節の廃止』 まだ骨折のあとが痛む右手でめくった報告書には、民主化への悪影響という理由とともに、その祭日の廃止が記載されていただけだった。 紀元節。 大陸をはさんだかつての同盟国の祭。 二月十一日。 昔の恋人の誕生日。 俺は別れの言葉もないままに、刃を交えることになった彼に思いをはせる。 内臓も骨も皮膚もやられ、いつ死んでもおかしくない状態。 この噂は、本当なのだろうか。
『あなたには失望しました。 あなたも、私のことを黄色い猿だと思ってらっしゃるのでしょう?』
人種差別撤廃提案が否決された日から、俺に触れられることを拒否した菊。別れの言葉もないままに孤立していった彼は、俺に刃を向け、俺は弟たちとともに彼を叩き潰した。 内臓を焼き、骨を砕き、皮膚を裂いたのは他ならない俺達だ。 あいつが極東でしでかした所業は、今だって許すことが到底できない。 敗戦宣言の受諾ひとつで憎しみは消えるわけはない。あいつの顔を見る機会が今までなかったのは、あいつの身の安全の為にも俺の精神衛生の為にも良かったのだろう。あいつの仏頂面に向かいあった途端、俺はどんな罵声を浴びせ、何発拳を振り上げるかわからないからだ。 でも、紀元節の廃止と聞いて、幸せだった頃の記憶が一気に押し寄せてきた。
『紀元節は私の誕生日でもあるのです』 はにかみながら教える小さな手をとって、提灯行列を追いかけた。 神社の暗がりで唇を重ねたあと、うつむいた赤い頬が愛しかった。 優しい温度。俺の初恋。きっと俺の唯一で、最後の恋。 殺しあっている最中も、恋しくてたまらなかったあの笑顔。 出来るならばもう一度、あの頬に触れたい。 あいつはきっと、触られただけで鳥肌を立てるくらい、俺を拒絶するだろうけれど。 気がつけば俺は上司の電話番号をダイヤルしていた。
悲劇の終わり
東京郊外の菊の家は奇跡的に焼け残っていた。 門に立つ警備兵のチェックを受け、桃色の薔薇の花束を抱えた俺は屋敷に足を踏み入れた。廊下は隅に埃がたまり、かつて鞠をついて走り回っていた少女の姿もなかった。 「面会は30分でお願いします」 黒髪を綺麗に結い上げた看護婦が流暢なアメリカ英語で告げ、屋敷の奥へと案内した。一見すると平凡な日系看護婦に見えるが、探るような眼差しは彼女が情報部に所属する人間であることを知らせていた。俺が尋ねた頃の暖かさを失い、この屋敷は冷たい牢獄と化していた。 「俺も連合国だ。アメリカとは対等の立場にある。 盗み聞きのような真似はするなよ」 寝室の前で耳打ちすれば、看護婦は大人しく元来た道を引き返していった。静かな足音が遠ざり、止まったのを確認してから、俺は襖を開けた。 開かれた襖の向こうには、ずいぶんと殺風景な部屋が広がっていた。 家具らしきものは文机と小さな箪笥一双のみ。あとは白い蒲団と、枕元に置かれた水差しの載った盆だけだった。かつて何度も泊まったこの部屋には、本も装飾品もあったはずなのに、この部屋には床の間に掛け軸すらない。 がらんとした部屋の中央で、正座をした菊が平伏していた。 「本来ならば私の方から出向かねばならぬところ、このような姿でお詫びすることをお許しください」 着流しながらきちんと紺の紬をまとい、よどみなく謝罪の言葉を口にする姿は、俺の良く知っている礼儀を重んじる男のものだった。彼が瀕死の重態であるとか、回復が遅いとか報告を受けていたが、これならば、怪我も思ったより悪くないのかもしれない。 まとう雰囲気もとげとげしさが抜け、俺が知っていた時代の彼のように穏やかなものになっている。 むき出しに示される敵意や、包帯を身体中にまいた怪我人を予測し、わずかに身構えていた俺は拍子抜けした。 「いや、別に、こんな距離たいしたことねぇよ」 意気込んで訪問したものの、何を話せばよいのかすら思いつかない。 俺は適当に返答し、菊の前に腰をおろす。気まずさにさまよわせた視線が、ふと着物の合わせ目に降りて、とまった。 襟や袖口から覗く身体は包帯で覆われ、痩せた首は頭を載せていられるのが不思議なほどに細い。 噂も、報告も正しかったのだ。 「何やってんだよ、馬鹿。ひどい怪我じゃないか」 俺はそっと菊の肩に手をかけ、蒲団へと倒した。 「まだ起きられる状態じゃないんだろ、寝ていろよ馬鹿」 「ですが、それではあまりに失礼ですので」 平伏していた間は見られなかった顔はやつれ、かつては煌いて俺を映した瞳には生気がない。俺の知っているまろやかな笑顔との落差が俺の心臓を掴んだ。 「馬鹿! 俺にまで気を使うな」 夢中で抱きしめた身体は細く、俺の肩の中にすっぽりと納まってもまだ余っていた。かさついた肌が、艶のない髪が、冷たい体温が、浮き出た骨が、菊のすべてが痛ましくて、いつの間にか涙が溢れていた。 どれほど痛かっただろう。 苦しかっただろう。 寂しかっただろう。 悲しかっただろう。 怖かっただろう。 「俺にだけは気を使うなよ。 俺は、今だってお前を愛しているんだからな、 別れたつもりなんて無いんだからな」 罵りたいことは沢山あったはずなのに、憎しみで寝付けない夜を幾晩も過ごしたのに、俺の口から出たのは胸の一番奥に潜んでいた真実だった。 そう、俺は菊を愛している。 何があったって、この真実は変わらなかった。 「・・・・・・憎んでくださったらいいのに」 弱い声が宙に消える。 菊は俺の背に腕をまわさない。腕をたらしたまま、俺の胸に顔を埋めようともしない。 まだ俺を憎んでいるのだろうか。
『黄色い猿をからかって面白かったですか?』
「俺はお前を、愛する人間を猿だなどと思ったことはない!」 俺のあげた声は悲鳴に近かった。 「俺はお前の提案に反対した、その進む道に立ちはだかった。 アルフレッドと一緒にお前を潰した、それは確かだよ。 でも、俺はお前が好きで、愛しくて恋しくて、指一本でもいいからお前に触りたくて、」 「やめてください!」 存外に大きな低音が冷え切った空気を切り裂いた。 菊は両耳を手でふさぎ、大きく何度もかぶりを振った。 「あなたが私を蔑んでないことくらい、存じております。あなたは見下す相手に時間を割くほど、プライドの低い方ではありません。 ですから、お願いですから、私を憎んでください。 軽蔑してください。 私にはもう、あなたに愛される資格などありません」 「馬鹿!」 俺は小さな手をつかみ、象牙色の額に自分の額を合わせた。お互いの息が触れ合う。俺の気持ちも菊の心に染み込んでいけばいい。 「資格って何だよ、そんなの要るかよ。 戦争は終わったんだ。 俺を許してくれるならば、俺を信じてくれるならば、もう一度俺の手をとってくれ」 ゆっくりと子供に言い聞かせるようにゆっくりと語りかけ、痩せてしまった童顔を見据える。 潤んだ瞳は俺を受け止め、一瞬だけ閉じられた。 菊が息を吸い込む。
「私はアルフレッドさんと寝ました」
告白は静かなものだった。 自分の鼓動がやけに大きく聞こえた。ちらり、と弟の広い背中がまぶたに浮かぶ。 「はは・・・・・・そうか、お前はアルに抱かれたんだ」 「ええ」 諦めを湛えた黒瞳はどこまでも静かで、平坦だった。 「アルの方がいいのか。 そうだよな、あいつは強いし、お前の支配者だし、落ちぶれた俺よりいいよな。誰だって乗り換えるよな」 静けさに耐え切れずに目をそらせば、自虐的な言葉が勝手にあふれ出してきた。 アルフレッド。 この世界でロシアと並んで最も強い国。 富も栄光も力も今、あいつの上に輝いている。 皆に頼られ、戦後はロシアや共産圏の恐怖と戦うヒーローになった弟。世界は彼抜きでは回らない。 外見だって、最近はすっかり贅肉が落ちて、ハリウッド俳優のようなハンサムになった。 「俺達はもう何年も前に別れたし、別にお前がアルフレッドを好きになったって不思議じゃないよな。 むしろこんな風に世話になっていて、恋に落ちないほうがおかしいよな」 張りのある弟の笑い声を思い出す。 あいつの陽気さは皆を楽しくさせる。 あいつはきっと、絶望の中にある菊を励まして、笑わせて、心をかっさらっていったのだろう。人を傷つけることしか出来ない俺には、真似しようと思っても無理な芸当だ。 「そうだよな、俺はもう金も力もない、アルのおかげで勝っただけの役立たずだもんな。 あいつは明るいヤツだし、人を笑わせるのも得意だし、付き合っていて楽しいだろう。俺みたな皮肉屋なんて一緒にいて疲れるし、権力があったから相手にしていただけで」 「違います! 私は、アルフレッドさんを愛してなどおりません」 止まらない自虐の繰り返しを遮ったのは、毅然とした低音だった。 「お金とか、軍事力とか、楽しいとかじゃないんです。 あなただから、私は愛しているのです。 いくら力があっても、お金があっても、愉快でも、あなたでなくては無意味なのです」 痩せた頬を伝う涙は、別れの日に見た涙と同じくらい綺麗で、俺の胸を締め付けた。 悪い考えが頭をよぎった。 菊がアルフレッドに惚れていないのであれば。 搾り出した声は震えていたと思う。 「じゃあ、あいつに無理強いされたのか?」 「いいえ」 菊は小さくかぶりをふった。 「あの方はひどく・・・・・・怯えているのです。 自由主義世界の国々や上司の方々からの期待に押しつぶされて、顔では笑っていても内心は怖くて仕方がないのです。 私の看病をしながらその不安を口になさっているうちに、私達はこうなってしまったのです」 血の気が引いていく。 眩暈がした。
『俺はみんなのヒーローだからね』
そう笑うあいつの食欲が落ちていることに、俺もフランスも気がついていた。 でも、あえて話を聞こうとはしなかった。 相談にのったところで何も問題は解決しないというのが表向きの理由で、本当のところは自分の身で精一杯な状況で、これ以上の責務を負わされるのが嫌だったのだ。 「不安と恐怖で頭がいっぱいなのに、元は敵である私しか話を聞いてくれる人がいなかったのですよ。 私にすがったとしても、誰が彼を責められますか? アルフレッドさんは悪くありません」 きっぱりという菊の瞳には、彼本来の強さが光っていた。 俺がアルフレッドを追い詰め、アルフレッドは菊に逃げ込み、菊は哀れな子供を受け止めた。 「上司から、アルフレッドさんの意見には全面的に従えと指示を受けています。 でも、アルフレッドさんは決して無理やり言うことを聞かせたわけではないのです。 私が、アルフレッドさんからの利益を期待して身を任せただけなのです。悪いのは私の浅ましい保身なのです」 自分勝手な俺と、精神がまだ弱いアルフレッドの業を痩せた身に引き受け、それでも唇の端を上げて笑顔を作る菊が、悲しかった。 「だから、私のことはもうお忘れください。 不実で優柔不断な私をうんと嫌って、記憶から消してください。お願いします」 「・・・・・・お前を憎むか愛するかは、俺が決める」 決意を込めて、俺は唇を菊の唇に押し当てた。 「ダメです」 潤いのない唇ははじめ俺を拒んでいたが、辛抱強く舌を這わせるとようやく受け入れてくれた。数十年ぶりの懐かしい感触が、俺の脳髄を蕩けさせる。 「ずっと、触れたかった」 「私だって」 柔らかな舌を追って口腔深くに入り込み、腕の力を強めて痩せた身体を引き寄せる。細い腕の感触を背中に感じた俺は、ゆっくりと恋人の身体を倒した。
行為の最中、俺は出来る限り相手の傷に気を配ったつもりだったが、それでも相応の無理をさせたらしい。横向けで腕枕に頭を載せた恋人は閉じようとするまぶたと戦っていた。 「少し寝ろよ、疲れただろ」 「でも、眠っている間に、あなたは行ってしまうのでしょう? 目覚めたときにあなたがいないなんて、もう嫌です」 「大丈夫だ、俺はいつでもお前の傍にいてやるから。 だからもう寝ろ」 俺の嘘に、菊は悲しそうに笑ってまぶたを閉じる。 「また手を繋いで歩けるようにしてやるから、お前は安心して、俺に全部任せればいい」 眠りのふちにいた菊はかすかにうなずいて、そして静かな寝息を立て始めた。 俺は油気のない髪を撫でながら、どうすれば俺達が幸せになれるのかを考えた。 悲劇はもうたくさんだ。
菊が完全に眠ったのを確かめて、俺は花束の半分を押入れに隠し、半分を持って廊下に出た。おい、と声をあげれば台所のほうから先ほどの看護婦が早足で歩いてきた。 「紀元節がなくなったことを知らないで持ってきたが、日本はいらないそうだ。 本国の貴人から預かってきた花だから持ち帰るわけにもいかない。処理してくれ」 看護婦は無言のまま花束を受け取る。 薄紅色のマニキュアに薔薇の色が映える。美しい手だ。 「それから、アメリカの上司が、日本に紀元節の贈り物を受け取らないように指示していたそうだな」 女の眉が片方だけ、ほんの少し動いた。 「こういうことはさっさと知らせろよ」 それだけ言って俺はまた寝室に戻った。 小走りでどこかへ向かう足音。 秘かに俺は計略の成功を祈って指を交差させた。
西日が赤く障子を染める頃、玄関から大きな声が聞こえてきた。 「菊!お見舞いに来たよ」 どかどかと大きな足音に寝入っていた菊が目を覚ます。見開かれた瞳は、俺に蒲団を出るようにと訴えていた。 でも、俺はその目配せを無視して、小さな顔を胸に引き寄せ、声を封じた。 「菊!おーい、寝てるのかい?」 機嫌の良い大型犬のようにはしゃいで襖を開けた弟は、次の瞬間に凍りついた。 「アーサー、君は何をしてるんだい」 「セックス。見りゃわかるだろ」 俺はにんまりと海賊時代の笑みを作った。 こいつが力に見合う精神力を持たないせいで、菊が苦しんでいるんだ。 絶対に許さない。 「菊が愛しているのは俺だからな、戦争も終わったし、別にヤッたっておかしくないだろ」 「何で? 今の菊と付き合っているのは俺なんだぞ」 「ああ、付き合ってる? 菊の方は義務で、だろ」 菊がじたばたと暴れだすから、俺は腕に力を込めて押さえつけた。菊は優しいからアルフレッドに付け込まれるんだ。俺が守ってやらないと。 「上司に命令されて、菊は仕方なくお前に甘くしてあげてんだよ。 馬鹿だな、気がつけよ」 アルフレッドの顔が赤くなる。 「菊をママの代わりにして、べそべそ泣き付いて、ついでに下半身の世話までしてもらいたけりゃ勝手にしろ。 でもな、菊はお前を愛しちゃいないし、お前だって菊に恋しちゃいねぇ。 菊がガキの性欲処理に協力したって、俺は全く気にしねぇよ」 ばこん、と間抜けな音がこいつの作った牢獄に響いた。 大きな拳でたたかれた襖には見事に穴が開く。 せめて漆喰の壁なら迫力も出ただろうに、紙に穴を開けただけの武力行使なんて、滑稽なだけだ。 「あーあ、襖、修理結構手間かかるんだよな。 『お客様』はやったことないだろうけど」 「・・・・・・菊は俺に優しくしてくれただけかもしれないけど」 まだ甲高いハイティーンの声は震えていた。こいつだって菊に愛されてないことくらい気がついていたのだろう。 「俺は菊が好きだ」 精一杯の青年の主張を俺は鼻で笑ってやった。 「誕生日に花もケーキも持ってこないで、何が好きだ、だよ。 好きな子の誕生日なら何日も前から準備するのが当たり前なのに、お前は菊に何かしてあげようとかいう気はないんだろ」 「だって、菊はプレゼントを貰ったら困るって聞いて」 「俺の花束はちゃんと喜んでくれたけどな」 アルフレッドが文机に目を移し、息を呑んだ。 隠しておいた薔薇は水差しに生けられ、誇らしげに上品な香りを撒き散らしている。 「上司が、菊に命令したって、」 「こんなことくらいで一々上司も騒がないだろ。下手な言い訳はよせ」 空色の瞳が大きく見開かれる。嵌められたことに気がついたってもう遅い。 怪我人をきちんと介護する看護婦ならば、あんなに整った爪を維持できはしない。情報部員らしからぬ職務に嫌気がさしていた彼女は、「イギリス」が「日本」に近づいていると思い込んで俺の仕掛けた罠に飛びついたのだろう。アルフレッドに勇んで電話をかけて、俺の訪問を報告し、そのうえ言葉の裏も取らずに、誕生日プレゼント禁止命令もご丁寧に伝えてあげたのだ。俺が捏造した真っ赤な嘘だというのに。 全ては想定したとおりに進んだ。 「アーサーさん、アルフレッドさんは悪くありません」 俺の腕の中から顔を出した菊が非難の眼差しを向けてきた。 「保身に走った私が悪いんです。 アルフレッドさんが純粋な、優しい方なのはあなたもご存知でしょう? 性欲処理だなんてひどすぎます」 どこまでも優しく、弱いものを守ろうとする菊が愛しくて、俺は痩せた頬に唇を落とした。 「お前は優しいな、菊。 でも、アルフレッドが心からお前を愛しているならば、お前の幸せを願うだろう? 上司がなんていおうが、誕生日にはプレゼントをあげて喜ばせるだろう。 あいつは貰うだけなんだ、そんなの愛じゃない。 あいつは、お前を愛情の対象とは見ていないんだ。お前のことなんか、よくてママ、悪くて娼婦にしか思ってないんだ。 あいつがお前を愛しているなら、お前の幸せを願って、俺の元に送り出せるだろう。 お前の気持ちを知っていながら、それが出来ないのだから、」 愛しい頬に唇を寄せたまま、俺はアルフレッドを盗み見た。 肩を落とし、青ざめた弟は混乱しきっている。 甘えてばかりの恋は、年上に対する思春期の思慕の典型的パターンだ。それはそれでひとつの恋愛の形とも言える。 でも、今のアルフレッドにはそのことには気付きすらしないだろう。 「やつはお前を愛してなんかいない」 菊との出会い以来、弟が暖めてきただろう恋に、俺は引導を渡した。
「菊、今までごめんね」 大粒の涙が空色の瞳からこぼれだす。 「俺の感情は復興には影響させないから安心してよ」 ぼろぼろとこぼれる涙は、まるで雨のようだ。泣き方だけは子供の頃と変わらない。 「アルフレッドさん、」 「菊、俺に君を送り出させてよ。 俺だって君が大好きなんだ。君に、幸せになってほしいんだ。 君を愛してるんだ」 それだけ言うと、アルフレッドはぺたりと膝をついて、更に泣きじゃくった。菊が俺の腕から抜け出して、自分より遥かに図体の大きい支配者を胸に抱き寄せる。 「君を愛してるんだ、これだけは信じてよ」 「ええ、アルフレッドさん。信じますよ」 「本当だよ、本当に好きなんだ」 「ええ、わかっていますよ」 「開国のときから、ずっとずっと、君だけを好きだったんだよ」 子供が泣きつかれて眠るまで、菊は明るい金髪を撫で続けていた。
こうして、悲劇は終わった。
「あなたはひどいお兄さんですね」 アルフレッドに蒲団を譲り渡した後、居間で紅茶をすする菊が大げさにため息をついた。 「アルフレッドさんはまだ子供ですよ。かわいそうに。 これで人間不信になって、恋人も作れなくなったらどうするのですか?」 「お前のほうが残酷だろ」 俺は持参したスコーンを口に含んだ。今日もこんがりとよく焼けている。 なのに、菊は手をつけようとはしなかった。たぶん、まだ胃腸が本調子じゃないのだろう。 「あのままアルフレッドと関係を続けていたら、あいつ自身がかえって傷つくだけだろ。 お前を抱くたびに愛されていないことを確認するだけじゃないか」 「まぁ、そうですね。 でも、偽りであっても、すがりつきたい時ってあるじゃないですか」 どこまでもアルフレッドをかばう菊が、少し鬱陶しかった。 このかばいようはただの庇護欲のなせる業か、それとも芽生えかけた恋愛感情か。 いずれにせよ、今日決着をつけたことは、俺にとっても菊にとっても、それからアルフレッドにとっても良かったはずだ。 「でも、慰める方法はいくらでもあるだろ。漫画描いてやるとかさ。 それに、お前と付き合う暇があったら、外に出て、女の子と出会うほうが建設的だろ」 「まぁ、そうですね。 外の世界にはこんな爺さんより、魅力的なお嬢さんは沢山いますし。ベラルーシさんなどは怖いけど美人なことは美人ですよね。ウクライナさんはアルフレッドさん好みのグラマーですし」 「それ、しゃれにならないから」 俺達は炬燵の中で足をじゃれさせながら、たわいもない話を続ける。あと少しすればアルフレッドも起き出して、腹が減ったと騒ぐだろう。立ち直りの早いのがあいつの数少ない長所だ。 台所 には、夕食と思しき粥と数種類の漬物が整えられていた。 菊に聞けば、食事は明治の時代から仲良くしている近所の老女がこしらえてくれるという。菊は漬物を思う存分貪り食えて満足そうだが、俺は彼の高血圧が心配だ。休暇中は俺が栄養たっぷりの減塩食を作って傷の治りを早めてやるつもりだった。この際、アルフレッドにも料理を教えておこう。 さぁ、今夜は何を作ろうか。
翌朝、日本の容態が急変することを、そのときの俺は知るはずも無かった。 |