驚いた。 彼がイギリス以外を好きになったことがあるなんて。 この学園に来る前だろうか。 でも、それならばボタンはあげないはずだ。 「へぇ。誰?」 「正確には、初恋でもありませんね。ただの憧れです」 俺の疑問は軽く流された。 俺達は肩を並べて渡り廊下を本棟へと向かう。講堂から金管のチューニング音が聞こえてくる。校舎めぐりの間に学園は少しずつ動き出していた。 「憧れ?」 「その方は余りにもまぶしすぎて、どうこうなろうとか思いませんでした」 「そいつは君の気持ちに気がついていたの?」 「さぁ。出逢ってすぐ告白はされましたが、冗談か本気かわかりませんでした。 彼はとても積極的で、私には理解できないくらいに激しくアプローチをしてきたので」 「じゃあ、両思いだったんじゃないか!」 すれ違う下級生が俺の顔をじろじろと眺めて、でも足を止めずに去っていった。 すぐ横の黒髪が春風でふわりと揺れる。綺麗な白い横顔は、ただ前を見ていた。 「どうでしょうね。 でも、迷っているうちにイギリスさんと出会ってしまいました。 彼は私にとてもよく似ているので、安心して恋に落ちてしまいました」 「変な言い方。 それに君とイギリスのどこが似ているんだい?」 「色々と」 日本が喉の奥で笑う。 俺には日本とイギリスの共通点なんか思いつかなかった。せいぜい、説教が好きだとか、年寄りじみた趣味があるとか、絵が上手いとか。だけど、そんな共通点がある生徒は他にもいっぱいいる。 「それで、その男はどうなったの?」 「いつの間にかアプローチもしなくなりましたよ」 「そりゃ、君に相手が出来ればどんなちょっかいもだせないよ。 相手の男もかわいそうだな。両思いだったかもしれないのに」 俺はその不幸な男に考えをめぐらせた。 どんなやつかは知らない。 遊びだったのかもしれないし、日本が引く程溺れるように惚れていたのかもしれない。でも、彼はみすみす大きくて美味しい魚を逃してしまったのだ。 「彼と私は違いすぎました。 お付き合いしてもきっと上手くは行かなかったでしょう」 本棟が近づくに連れて、俺に挨拶をする顔も増えてきた。 日本が声を抑え、この話題を切り上げる。 「では、また卒業式に」 「うん」 華奢な背中がアジアクラスの学生達に溶けていく。ポケットの中身がどこか重かった。
卒業式の祝辞は耳に入らなかった。 俺の意識を支配しているのは日本。 アジアクラスの総代として舞台で卒業証書を受け取っている姿は、俺の席からはほんの小さくしか見えなかった。 ステージの白い照明の下でその顔はいつもよりも一層真面目な、作り物のような表情を浮べていた。 ポケットに突っ込んだ手が撫でるボタンは丸い。硬い。少し温い。 ひとつくらい日本の特別なモノが欲しかったけれど、盗品ではいつかきっと、自分が惨めになるはずだ。 それに特別なモノは今朝もう貰っている。 想い出の場所をめぐったあの時間が、日本の記憶の中にも俺がいることを証明してくれた。 それだけで俺は満足すべきなのだろう。
ボタンを返そう。大好きな日本に。 それが俺が彼のために出来る、最後のことだから。 |